ヘンドリクス・スネーフリート
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ヘンドリクス・スネーフリート

生誕 (1883-05-13) 1883年5月13日
ロッテルダム
死没1942年4月13日(1942-04-13)(58歳)

ヘンドリクス・ヨセフス・フランシスクス・マリー・スネーフリート(オランダ語:Hendricus Josephus Franciscus Marie Sneevliet 、1883年5月13日 -1942年4月13日)は、簡称名でヘンク・スネーフリート、偽名としてマーリンを使用した。オランダ人共産主義者であり、オランダ本国及びオランダ領東インド(現インドネシア共和国)で主に活動を行った。また彼はコミンテルンから中国に派遣され1921年7月の中国共産党の設立で重要な貢献した。第二次世界大戦が勃発すると祖国オランダを占領したナチス・ドイツに抵抗する共産主義派のレジスタンスに参加し、1942年にドイツ人により処刑された。目次

1 青年期

2 オランダ領東インド

3 コミンテルンでの活動

4 オランダへの帰国

5 死

6 関連項目

7 脚注

8 外部リンク

青年期

スネーフリートは1883年5月13日ロッテルダムで生まれ、スヘルトーヘンボスで育った。学校を卒業すると、1900年にオランダ国鉄に就職し、オランダ社会民主労働者党(英語版)(SDAP)及びオランダ国鉄労働組合(NV)に加入した。1906年ズヴォレにおいてSDAPの政党活動を行い、1907年のズヴォレの市議会選挙において最初の社会民主主義派の市議会議員となった。

スネーフリートはまたNVでも活発な活動をして、1911年には組合の委員長となった。スネーフリートは組員の中でも急進派のメンバーであった。1911年に外航汽船の船員がストライキを起こしたときに組合の一部の急進派たちはこれに参加したが、組合員の大部分とSDAP党員の大部分はストライキに参加することを反対をした。スネーフリートら急進派にとって、これは所属する組合及び政党からの孤立につながった。スネーフリートはオランダ本国を離れ、植民地オランダ領東インドに行くことを決めた。この決心は、その後の彼の人生に影響を与える、大きな転機となった。
オランダ領東インド

スネーフリートはオランダ領東インド(現在のインドネシアにほぼ一致する。)に1913年から1918年まで滞在し、到着後間もなく反オランダ闘争運動を行うようになる。1914年、彼は東インド社会民主主義同盟(ISDV)の共同設立者のうちの一人となった。この組織は、オランダ人インドネシア人の両者が参加した。

スネーフリートはトラック・路面電車乗員協会(インドネシア語版)(オランダ人とインドネシア人の両者をメンバーとするユニークな鉄道労働組合)のメンバーとなり、再び労働組合運動をする事となった。組合のリーダーとして彼は積極的に活動し、すぐにそれまでの穏健な組合を、近代的で積極的な組合にした。その後、組合はほとんどがインドネシア人が占めるようになった。組合は後にインドネシア共産主義運動の基盤を形成した。

ISDVは、厳密には反資本主義思想の組織であり、オランダ植民地体制とインドネシア人エリート特権階級に対抗する、インドネシア民衆の扇動を行う組織であった。こうした背景を持った組織であったため、現地で商売に成功した人々の中で保守的な考えを持つグループとSDAP党員の穏健グループからは、ISDVとスネーフリートに対し幾つもの抵抗が起きた。こうした事もあり、1916年には、スネーフリートはSDAPを離脱しオランダ社会民主党(英語版)(SDP)に加入した。SDPはホラント共産党(英語版)(CPH)の前身組織であり、CPHはその後にオランダ共産党(英語版)(CPN)となる。

ロシア革命勃発により、スネーフリートの急進主義は、オランダ人兵士とりわけ海軍水兵とそれと同数のインドネシア現地住民の両方から大きな支持を得た。このことはオランダ植民地当局に強い緊張を与え、スネーフニートとISDVは要注意人物及び組織となった。植民地当局の監視が強まり、スネーフニートは1918年にオランダ領東インドを去ることを余儀なくされた。オランダ植民地当局により、ISDVはその後長く弾圧されることとなる。

オランダに帰国した後もスネーフリートはインドネシア人たちの状況に関心を持っていた。1933年には彼はデ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン号の反乱に参加したオランダ人やインドネシア人の水兵と連帯行動したとの罪で五ヶ月の懲役を宣告された。この反乱では、オランダ軍空爆により、デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン号は損害を受け、乗組員23名の死者を出した。この事件は、当時のオランダ国民に強い熱情を呼び起こした。
コミンテルンでの活動

オランダに帰国後、ホラント共産党の指導者はオランダ領東インドにおけるスネーフリートの活動の方法を批判し、スネーフリートは少し疎外されていた。その後、スネーフリートは労働組合運動に努め、1920年の鉄道ストライキを組織するのを助けた。同年には東インド共産党の代表として、モスクワコミンテルンの第2回会議にも出席した。


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