ヘントの祭壇画
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『ヘントの祭壇画』オランダ語: Gents altaarstuk

作者フーベルト・ファン・エイクヤン・ファン・エイク
製作年1432年
種類板に油彩
所蔵シント・バーフ大聖堂ヘント
翼を畳んだ状態。

『ヘントの祭壇画』(ヘントのさいだんが、: Gents altaarstuk)または、『神秘の子羊』『神秘の子羊の礼拝』(: Het Lam Gods)は、複雑な構成で描かれた非常に大規模な多翼祭壇画
概要

板に油彩で描かれた初期フランドル派絵画を代表する作品の一つで、ヘントのシント・バーフ大聖堂(聖バーフ大聖堂)が所蔵している。

12枚のパネルで構成されており、そのうち両端の8枚のパネル(翼)が畳んだときに内装を覆い隠すように設計されている。これら8枚のパネルは表面(内装)、裏面(外装)ともに絵画が描かれており、翼を開いたときと畳んだときとで全く異なった外観となって現れる。『ヘントの祭壇画』は、日曜日と祝祭日以外の日には翼が畳まれており、さらに布が掛けられていることも多い。

『ヘントの祭壇画』の制作を開始したのは、その生涯も作品もほとんど伝わっていないフランドルの画家フーベルト・ファン・エイクである。フーベルトが『ヘントの祭壇画』のデザインのほとんどを完成させたと考えられているが、フーベルトは製作途中の1426年に死去してしまう。その後、未完だった『ヘントの祭壇画』の大部分を、1430年から1432年にかけて完成させたのがフーベルトの弟であるヤン・ファン・エイクである[1]。『ヘントの祭壇画』の、どの部分がフーベルトが描いた箇所で、どの部分がヤンが描いた箇所なのかを特定しようという試みが何世紀にもわたって続けられているが、未だに定説となっているものはない。現在もっとも広く受け入れられている説は、全体のデザインと構成はフーベルト、そして個々のパネルを絵画として完成させたのが、外交官として派遣されていたスペインから帰国してきたヤンだとする説である。

『ヘントの祭壇画』の制作依頼主で、この祭壇画を教会に寄進したのは、商人、投資家、そして政治家でもあったヨドクス・フィエトで、当時のヘントでは市長に相当するような地位にあった人物である。洗礼者ヨハネ教会(現在のシント・バーフ大聖堂の前身)の教会区に、ヨドクスとその妻エリザベト・ボルルートが後援者となって建てる新しい礼拝堂用の祭壇画として、フーベルトに『ヘントの祭壇画』の制作を依頼した。完成した『ヘントの祭壇画』がお披露目されたのは1432年5月6日で、ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公/ル・ボン)のために開催された公式行事の一環としてだった。『ヘントの祭壇画』はそのまま予定通りにヨドクスが出資した新築の礼拝堂に飾られていたが、後に保安上の理由から聖堂付属の主礼拝堂へと移設されて、紆余曲折があったものの現在もこの主礼拝堂に展示されている。

『ヘントの祭壇画』の様式には、国際ゴシックと、伝統的なビザンティン美術ローマ美術からの影響が見られるが、一方で「美術の新たな概念」が描き出されている。モチーフを理想化して表現する伝統的なそれまでの中世美術 (en:Medieval art) ではなく、自然の正確な観察に立脚した写実主義が表現されているのである[2]。オリジナルのフレームに記されていた、現在は失われてしまっている銘文には「比肩できるものは誰もいない (maior quo nemo repertus)」画家フーベルト・ファン・エイクがこの祭壇画を描き始め、「二番目に優れた (arte secundus)」画家ヤン・ファン・エイクが1432年に完成させたとあった[3]。オリジナルのフレームは極めて華美なものだったが、宗教改革のさなかに失われてしまっている。このフレームには翼を畳んだり、楽器を奏でることができるぜんまい仕掛けの機能があった[4]

『ヘントの祭壇画』の外装に描かれている絵画は三段に分かれている。外装中段に描かれているのは聖母マリアの受胎告知である。外装下段は縦四つに仕切られており、内側部分には単色のグリザイユで表現された彫像のような洗礼者ヨハネ福音記者ヨハネが、外側部分には『ヘントの祭壇画』の制作依頼主であるヨドクス・フィエトと妻エリザベト・ボルルートの肖像 (en:donor portraits) が描かれている。内装上段にはイエス・キリスト(異説あり、後述)を中心として聖母マリアと洗礼者ヨハネが描かれている(デイシス)。マリアの左隣のパネルには歌う天使たちが、さらにその左隣のパネルにはアダムが描かれている。洗礼者ヨハネの右隣のパネルには楽器を奏でる天使たちが、さらにその右隣のパネルにはイヴが描かれている。内装下段の中央部分に描かれているのは神の子羊で、その周囲には神の子羊を崇拝するために集った天使、聖人、預言者、聖職者や、聖霊の化身であるハトなどが描かれている。

『ヘントの祭壇画』はその制作以来、北方ヨーロッパ絵画の最高傑作のひとつであり、人類の至宝と見なされてきた[5]。宗教改革時に巻き起こった聖像破壊運動では、『ヘントの祭壇画』も破壊されかけたことがある。さらにパネルが裁断されて、売払われたり略奪されたこともあった。第一次世界大戦の終結後に、散逸していた『ヘントの祭壇画』のパネルが元通りシント・バーフ大聖堂に戻された。しかしながら、1934年に左下部の「正しき裁き人」のパネルが盗難に遭い、2013年現在も行方不明のままとなっている。第二次世界大戦ではナチス・ドイツが『ヘントの祭壇画』を略奪し、他の略奪絵画とともにオーストリアの岩塩坑に隠匿していた。終戦後の1945年になってベルギーに返還されたが、『ヘントの祭壇画』の顔料、ワニスが大きな損傷を被っており、全体的な修復が施された。現在の『ヘントの祭壇画』に見られる「正しき裁き人」は、この修復時に制作された複製画である。
制作依頼.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}外装下段に描かれたヨドクス・フィエト(1439年没)。外装下段に描かれたエリザベト・ボルルート(1443年没)。

ヨドクス(ヨースとも)・フィエトは裕福な商人で、過去数世代にわたりヘントに影響力を持つ名家の出身だった。ヨドクスの父ニコラース(1412年没)は、フランドル伯ルイ2世の側近だった人物である。最晩年のヨドクスはヘントの最長老の一人であり、大きな政治力を有していた。ヨドクスはパメレとレデベルフの「領主 (Seigneur)」の称号で呼ばれ、ブルゴーニュ公フィリップ善良公がもっとも信頼する地方有力者の一人となっていった。1398年ごろにヨドクスは、裕福な名家出身のエリザベト・ボルルートと結婚した[6]。子供に恵まれなかったこの夫妻は教会に多額の寄付をし、前代未聞ともいえる大規模な祭壇画の制作を依頼した。『ヘントの祭壇画』を制作させた理由については諸説あるが、遺産を形あるものとして残したかったためだという説が有力となっている。しかしながら美術史家ティル=ヘルガー・ボルシェルトは「自身の社会的地位を今後も安定させるため」とし、ヨドクスのように野心的な政治家にとっては、自身の社会的名声を誇示することが重要だったという説を唱えた。そして「ヘントのあらゆる教会や聖堂のなかでの最高額とはいえないまでも、少なくとも(シント・バーフ大聖堂の前身である)洗礼者ヨハネ教会への献金額としては他人を凌駕しようという自己顕示欲」だと結論付けている[7]

ヘントは15世紀を通じて繁栄し続けた都市で、ブルゴーニュ公国からの独立独歩の気風を持つ地方有力者が多く存在した。1430年代初頭に経済的苦境に陥ったフィリップ善良公が、ヘントに多額の献金を求めたことがあった。しかしながらヘントの有力者たちの多数派は、これは善良公からの理不尽な要求であり、経済的にも政治的にもそのような義務はないと突っぱねようとした。このため、ヘントと善良公との関係は悪化していくことになる。一方でヘントの有力者の中には善良公の苦境を助けようとする一派もあったため、フィリップ善良公を支持しない多数派との間に不協和音が生じ、ヘントの行政が不安定になっていった。1432年にはこのような権力闘争のなかで、おそらくは善良公に協力しようとした有力者が多数殺害されている。1433年に政変が起こり、その首謀者たちが処刑されたためにヘントの緊張は最高潮に達した[8]。このような不穏な情勢下でもヨドクスはフィリップ善良公への忠誠心を保ち続けていた。洗礼者ヨハネ教会教区参事官というヨドクスの立場は、この教会がヘントで開催されるブルゴーニュ公の公式式典の会場としてよく使用されることが大いに関係していた。『ヘントの祭壇画』が洗礼者ヨハネ教会に奉献された1432年5月6日は、善良公と妃イザベル・ド・ポルテュガルとの間に生まれた公子シャルル(のちの突進公/テメレール)の洗礼が洗礼者ヨハネ教会で行われた日であり、当時のヨドクスの社会的地位を如実に示しているといえる[9]

ヨドクスは1410年から1420年にわたって洗礼者ヨハネ教会の教区参事官に任命されていた。これは主礼拝堂柱間の改築費用と、新しい礼拝堂の建築費用を寄付したことと大きな関係がある。完成した礼拝堂はヨドクスにちなんだ名前がつけられ、後に代々のヨドクスの子孫が主催するミサの式場として使用されることとなった。このヨドクス一族の新たな礼拝堂に飾るために、異例なまでに大規模で複雑な構成の多翼祭壇画の制作がフーベルト・ファン・エイクに依頼された[6]。この礼拝堂も教会本体と同じく洗礼者ヨハネに捧げられたものであり[10]、『ヘントの祭壇画』の主たるモチーフとなっている「神の子羊」は、洗礼者ヨハネとイエス・キリストの伝統的象徴でもあった[11]


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