ヘロドトス
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ヘロドトスの胸像

ヘロドトス(ヘーロドトス、古希: ?ρ?δοτο?, H?rodotos、:Herodotus、紀元前484年頃 - 紀元前425年頃)は、古代ギリシア歴史家である。歴史という概念の成立過程に大きな影響を残していることから、歴史学および史学史において非常に重要な人物の1人とされ、しばしば西洋に於て「歴史の父」とも呼ばれる。

彼が記した『歴史』は、完本として現存している古典古代の歴史書の中では最古のものであり、ギリシアのみならずバビロニアエジプトアナトリアクリミアペルシアなどの古代史研究における基本史料の1つである。

生没年は不詳であり、生年は大雑把に前490年から前480年までの間とするのが定説である[1]。前484年説がしばしば採用されるが、明確な根拠を伴ったものではない[1][2]。没年は前430年以降であることは明白であるが、これも正確には不明である[3]。概ね前490年-前480年の間に生まれ、前430年から前420年の間に、60歳前後で死亡したとするのが一般的である[3]
生涯

ヘロドトスの知名度・重要性に反して、彼自身の人生について知られていることは少ない。彼の生涯についての情報源は以下のようなものに限られる[4][5]

ビザンツ帝国10世紀頃に成立したスーダ辞典におけるヘロドトスと関連する事項への言及。

古典古代の作家の断片的な言及。

ヘロドトス自身の叙述から拾い集められる情報。

スーダによればヘロドトスは小アジア南部のカリア地方にある都市ハリカルナッソス(現:トルコボドルム)の出身であり、父親の名はリュクセス、母親の名はドリュオ(ロイオとも)であったという[5]。兄弟にテオドロスという人物がおり、従兄弟(または叔父)に当時高名な詩人パニュアッシスがいた[5]。ハリカルナッソスは前900年頃にペロポネソス半島にあるアルゴリス地方の都市トロイゼンから移民したドーリス系ギリシア人の植民市であった[6][2]。しかし前5世紀にはハリカルナッソスの文化はイオニア化しており、ヘロドトス自身も古代ギリシア語イオニア方言を話したと推定されている[2][6][注釈 1]。また、ギリシア人と土着のカリア人との間の通婚も盛んであり、ヘロドトスの家も同様であった。ヘロドトスの父リュクセス、従兄弟(または叔父)のパニュアッシスはカリア系の名前であるが[2][6]、母ドリュオ(ロイオ)はギリシア語の名前である[6]。ヘロドトスとテオドロスの兄弟もまた、ギリシア語による命名であることは明白である[6]。ヘロドトスの名前はギリシア語で「ヘラ女神の贈り物」と言う意味である。ヘロドトスの出身家は名門であったようであり、詩人が身内にいることも彼の生まれ育った環境が知的・文化的に恵まれたものであったことを示す[2]

ヘロドトスが故郷にいたころ、ハリカルナッソスは女傑として名高いアルテミシア1世の統治下にあった[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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