ヘロデ大王
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ヘロデ
??????
ヘロデ大王の肖像や彫像は残っておらず(シューラー(2012 II) p.38註24)、この画像の顔は後世の想像である。
在位紀元前37年 - 紀元前4年

出生紀元前73年

死去紀元前4年

埋葬ヘロディウム
配偶者エルサレムのドリス(イドマヤ人)[1][注釈 1]
 マリアムネ(ハスモン家)(英語版)[1][注釈 2]
 マリアムネ2世[1][注釈 3]
 マルタケ(サマリア人)[1][注釈 4]
 エルサレムのクレオパトラ[1][注釈 5]
子女アンティパトロス3世
アリストブロス4世(英語版)
アレクサンドロス(英語版)
ヘロデ・アルケラオス
ヘロデ・アンティパス
ヘロデ・フィリッポス
ヘロデ[注釈 6]
王朝ヘロデ朝
父親アンティパトロス
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ヘロデ(ヘブライ語: ??????‎、英語: Herod、紀元前73年頃 - 紀元前4年)は、共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ王国を統治した王(在位:紀元前37年 - 紀元前4年)である。

マカバイ戦争を制してユダヤを独立させたマタティアとその息子たちの子孫であるハスモン朝(アサモナイオス家)が身内の争いで王座が空位となった際[注釈 7]ローマ元老院によって王族ではないがユダヤの王として認められヘロデ朝を創設、ローマとの協調関係を構築した。エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残した。だが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害した。息子たちと区別してヘロデ大王とも言われる[2][注釈 8]
生涯
王になる前

古代ユダヤにおいて再び独立を獲得したハスモン朝の末期の王アレクサンドロス・ヤンナイオスの息子ヒルカノス2世の側近にイドマヤ(エドムのギリシャ語読み)出身のアンティパトロス(彼の父も同名だったので正確には「アンティパトロス2世」[1])という武将がいた[注釈 9]。ヘロデはこのアンティパトロスの息子である[3]。父アンティパトロスはローマ軍の軍事行動を積極的に援助することでユリウス・カエサルの信用を勝ち取ることに成功し[2]紀元前47年の夏ごろ、ユリウス・カエサルによってユダヤのプロクラトル[注釈 10] に任命されていた[注釈 11]

カエサルの暗殺後、父アンティパトロスはローマ東方へ勢力を拡大したガイウス・カッシウス・ロンギヌスらのリベラトレス(共和派・元老院派)側へ味方した。王と大祭司であるヒルカノス自身は温和ではあるが愚鈍で非行動的な人間だったのでアンティパトロスは息子たちに政治を任せ、この時にガラリヤ地方を任された次男(長男のファサエロスはエルサレム周辺管轄)がヘロデであった[4]。若い頃[注釈 12]のヘロデは気性の強い活発な若者で、シリアとの国境周辺にいたエゼキアスという盗賊団を壊滅させるなどの活躍をして父や兄共々高い評価を得た[5]が、同時に周囲の人々はアンティパトロスの財力や権力の増大[注釈 13]を危惧したため、前述のヘロデがエゼキアス一味を裁判にかけずに殺したことを上げてヘロデ自身が裁判にかけられたが、裁判を開いたヒルカノス自身やこの法廷には居なかったが当時のシリア総督セクストスもヘロデの肩を持っていたこともあり、彼に死刑判決が下りそうな空気を悟ったヒルカノスの勧めでセクストスの支配下であるダマスコに亡命し、後日セクストスからシリア総督の地位を買ってエルサレムに軍を率いて来て力ずくでこの判決を覆した[6]。また、紀元前43年に父がマリコス[注釈 14]というユダヤ人に毒殺されると、復讐の機会をうかがい、カッシウスから許可を取ったうえでマリコスが挙兵を目論んでいたという事を理由に謀反人としてヒルカノスの前で殺させた[7]。それから間もなくカッシウスがシリアを発つとユダヤ地方では騒乱が頻発したが、ユダヤ地方(狭義)で起きたヘリックスやマリコスの兄弟の蜂起はファサエロスに、ガリラヤ地方で起きたアンティゴノス[注釈 15]とツロの僭主マリオンの進攻はヘロデによって鎮圧され、この頃までにヘロデはヒルカノスの孫娘(アリストブロス2世の孫でもある)のマリアムネ1世[注釈 16]との結婚を約束されていたため、ヒルカノスからは従来以上にその地位を守ってもらえるようになっていた[8]

ところが、紀元前42年フィリッピの戦いでカッシウスはマルクス・アントニウスオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に敗れ、その後アントニウスがアシアに来たため、ファサエロスとヘロデの専制的なやり方を嫌っていたユダヤ人の指導者たちは彼らがヒルカノスから権力を横取りしていると訴えたが、ヘロデの方が一枚上手でこれについて出頭して弁明し、さらにアントニウスを買収して告発者たちに発言の機会を与えずに文字通り黙らせ、告発者たちはアントニウスがシリアに来た時に再度訴えたものの、アントニウスだけではなくヒルカノスもヘロデ側についていたため、逆にファサエロスとヘロデは正式にテトラルケス(四分領太守・四分封領主)に任命されユダヤ人に対する行政を委任された。これでもまだ諦めなかった告発者達は騒乱を扇動するものとしてアントニウスに捉えられ、なるべく穏便に事を済ませようとしたヘロデは処刑にまでは至らないように仲裁し、逮捕には至らなかった人たちにもこれ以上争うのは危険だから去るように最後通告をしたが、結局拒否的な態度を取っていた告発者たちはローマ兵の攻撃を受け、逮捕された人々はアントニウスに処刑された[9]

ヘロデのチャンスは人生最大の危機によって訪れた。以前ヘロデに撃退されたアンティゴノスが、今度はパルティアの援助を受けて伯父に叛旗を翻したのである。この時パルティア人が友好的なそぶりで来たためヒルカノスとヘロデの兄ファサエロスは油断して彼らの元に行きそのまま捉えられてしまった[注釈 17]が、警戒してついていかなかったヘロデは婚約者マリアムネや彼女の母、自分の母や妹・弟などの女子供、ならびに従者や自分に従う民衆を連れてイドメアのオレサ[注釈 18]で弟のヨセフス[注釈 19]と合流し、ここでついてきた連中のうち一般民衆など9000人はここで食料などを持たせ比較的安全なイドメア地方内で逃げるように指示し解散させ、親族など重要人物は死海沿岸のマサダに逃げ込ませてヨセフスにそこを託し、主要なものだけを連れてさらに南のペトラに逃げようとしたが、そこを支配するナバテア王マルコスにペトラへ来ないように頼まれた[注釈 20]ため、計画を代えエジプトのアレクサンドリアに向かい(この道中でヘロデは兄の死を知った)、さらに嵐に遭いながらもローマに行きアントニウスにこのことを訴えた所、以前より親しくしていたことが功を奏して要求[注釈 21]が受け入れられたうえに、オクタウィアヌスにも同意を得られたことで元老院の公式議会で「ヘロデはユダヤの王である」と宣言された[10]

この時点でパルティア軍はアントニウスに任命されていたレガトゥスのウェンティディウスによってシリア一帯から追い返されていたが、彼らはアンティゴノスに対しては金を受け取るだけで直接攻撃はしなかったので、アントニウスはウェンティディウスとその副官のシロンにヘロデに味方するように命令を下し、ヘロデはこれらの援軍の力を借りてヨッパやマサダを制圧後エルサレムに向かったが包囲戦を行うには時期が悪く、一旦冬季用の陣営に帰還した[11]。翌年(紀元前38年)の春、パルティア軍は再度攻めてきたがウェンティディウスたちがこれを撃破し、ヘロデも弟のヨセフスの戦死などもあったがエルサレム周辺以外をほぼ制圧したため[12]、紀元前37年[注釈 22]の春からエルサレムを包囲し(エルサレム攻囲戦)、さらにこの時マリアムネと正式に結婚をし、婚礼が終わってヘロデは陣営に戻り、ウェンティディウスの後任として協力してくれるローマのソシウスからの援軍もあり、エルサレムは陥落してアンティゴノスは捉えられた。ヘロデはローマ兵がエルサレムで略奪などをされては困るので、彼らに謝礼として現金を支給する代わりにエルサレムでの略奪をしないように頼んで帰させ、さらにアンティゴノスが元老院で王位正当性を主張される危険を考えアントニウスに頼んで[注釈 23]処刑させ、ここにハスモン一族の人間がユダヤの王であった時代は終わった[13]「ヘロデのエルサレム占領(The taking of Jerusalem by Herod the Great, 36 BC,) ジャン・フーケ, 15世紀後半
権威の強化時代

ヘロデがユダヤの王として支配した時代は大きく3つに分けられ、第1期はBC37-BC25年の権威の強化時代、第2期はBC25-BC13年の全盛期、第3期はBC13-BC4年の晩年の家庭の悲惨な時期になる[14]

名実的にユダヤの王として支配を始めたヘロデには当初、国内でユダヤの民衆・貴族・旧王家のハスモン家の3つの勢力、国外ではエジプトの女王クレオパトラと争うことになった[15]、民衆に対しては好意と懲罰による飴と鞭の他、民衆に多いファリサイ派に顔が利くポリオンとその弟子のサマイアスという名士による説得も行った[注釈 24]。貴族層に対してはアンティゴノス派の残党を調べ、この派閥の指導者と見た45名を粛清してその財産を没収した(これは自分の後援者であるアントニウスの機嫌取りの資金にもなった)[16]。ハスモン家に対してはヘロデも一時は下手に出ており、パルティアに連れて行かれたヒルカノスを交渉して帰還させ、敬意をもって扱い「父」と呼ぶほどの扱いをした他、ヒルカノスが律法上大祭司に復帰できないので、代わりに外国から呼び寄せたアナネロス(アナネル・ハナヌエルとも)を据えた事についてヒルカノスの娘であるアレクサンドラたちが不満を抱いていると知ると、アナネロスを解任させてアレクサンドラの息子アリストブロス(3世)を大祭司にした。[注釈 25]

これによって一度は両者の関係は改善したものの、アレクサンドラやマリアムネ達を警戒したヘロデが彼女達も見張らせたこと[注釈 26]、さらにアリストブロスが紀元前35年の秋頃、ヘロデの宮殿のプールで溺死した[注釈 27]ことで両者の中は破局的になり、最終的にヘロデは前政権ハスモン朝の血を引くものをすべて抹殺することになった[17]

このアレクサンドラとつながりがあったエジプトのクレオパトラとの対立も深刻で、前述のアリストブロス死亡についてクレオパトラ経由でアントニウスに連絡がいき、「この件に関してラオディキア(シリア北西部の港町)に自分が行くのでそこに来て釈明せよ」と、ヘロデは処刑を覚悟でそこに向かうことになった(結果はアントニウスがヘロデのことを信用してくれ無罪とされた)、このアントニウスへの弁明の留守中にも早くもトラブルが起き、アントニウスの怒りを買ってヘロデが殺されたという誤報が伝わったため、アレクサンドラとマリアムネは彼女たちの世話(監視)を任せされていたヘロデの叔父(妹のサロメの夫なので義弟でもある)のヨセフス[注釈 19]を言いくるめて近くのローマ軍の陣地に逃亡を図ろうとし[注釈 28]、誤報と知って中止したものの逃亡計画はサロメとヘロデの母に発覚しており、サロメは夫のヨセフスがマリアムネと浮気しているとまで告発したためヘロデは両者を問い詰めたところ、ヨセフスに告げた前述のもしもの際の策までマリアムネが知っていたところからヘロデは関係があって密告したと判断し、マリアムネには思いとどまったものの叔父を容赦なく処刑した[18]。さらに、これと別件でクレオパトラがアントニウスの寵愛を受けたことで中東付近の領地獲得を求めた結果、ユダヤとアラビア地方の一部がエジプト領に加えられることになり、エジプト沿岸部からツロの北のエレウテロス川に至るまでのパレスチナ沿岸部の都市(ツロとシドンは除く)を手に入れた他、ヘロデの領地だった地域のうちエリコはクレオパトラの物にされたなど、ヘロデは一時自分の元に立ち寄ったクレオパトラの暗殺[注釈 29]も考えたが友人たちに成功してもアントニウスの怒りを買うだけだと止められてやめたとされる[19]

だが、最終的にこのクレオパトラの領地となった中東地域の税の徴収を任されたことが、ヘロデにとって幸運につながった。

アラブの王マルコス(1世)もヘロデと同様にクレオパトラに金を支払う必要があったのだが、彼はこれを支払わず、徴収を任されていたヘロデは力ずくでも取り立てる必要が生じてその準備をしていたため、アントニウスとオクタウィアヌスの間で起きる戦い(後のアクティウムの海戦)に参加しなくてよいとアントニウスから言われた[注釈 30]のでヘロデはマルコスとの戦いに向かった。マルコス軍との戦いは途中までは善戦したものの友軍のはずのアテニオン(クレオパトラの部下の将軍)軍の離反で大敗を期してゲリラ戦に持ち込む羽目になったり、ユダヤ地方一帯に大地震が起きて甚大な被害が出るなど悪いことが続いたため、ヘロデ側も和平交渉に出たがマルコスは地震による被害を過信して相手にせずに軍を率いて攻撃に出た。ところがこの時ヘロデとその軍隊は直接被害を受けていなかったため、これを迎え撃つのに成功した[20]

しかし、アクティウムの海戦でこれまで味方していたアントニウスが大敗を期したという情報も入り、アントニウス派であることが危険と察したヘロデはアントニウスを見限り、まずアントニウスの配下の剣闘士部隊が援軍としてキュジコス(現在のトルコ北西部にあった町)からエジプトに向かおうとしていたのをシリア総督ディディウスとともに阻止し、オクタウィアヌスの元に行く留守中に問題が起きぬように、マルコスとの内通容疑[注釈 31]のあったヒルカノスの処刑を行い、政治面を弟のフェロラスに任せ、身内の女子供はマサダの要塞で非常時に権力掌握をするように命じ、マリアムネとアレクサンドラは前述の女たちと不仲なので別のアレクサンドレイオンに移して信頼置ける部下に見張らせ旧王家に国を乗っ取られないようにしたうえ、ロドス島に行ってオクタウィアヌスに贈り物を渡し面会した。前述のようにヘロデは直接オクタウィアヌス軍と戦うことはなかったが、今までアントニウスに友好的でアントニウス軍に軍資金や補給物資を送ったことや戦わなかった理由はアラブとの戦いの都合だと正直に述べ、なぜそれでアントニウスを見限ったのかに関してはクレオパトラに彼がうつつを抜かして自分の警告を聞かなかったためとし、今度はオクタウィアヌスと友好を結びたいと堂々と主張した所、オクタウィアヌスは事情を察してヘロデの要求のうちアレクサス[注釈 32]の助命嘆願以外受け入れてくれ、ヘロデもアントニウスと戦うためにエジプトに行く彼の軍に補給物資を送り、彼個人には800タラント[注釈 33]の贈り物をしてもてなした結果、オクタウィアヌスはアントニウスに勝利を収めてエジプトを征服後、クレオパトラの衛兵400人を奴隷として送ったうえ、ヘロデがクレオパトラに取られていた領地の他に、かつてポンペイオスがハスモン朝時代のユダヤの王アリストブロス(2世)から没収したガダラ・ピッポス・サマリア・ガザ・アンテドン・ヨッパ・ストラトンの塔もつけてくれ、国内でもヘロデの評価は大きく上がった[21]

しかし国外からの危険は幸運に転じられたが、彼自身の家庭に関しては悲惨なことが続いた。

ロドスに行く前にマリアムネとその母アレクサンドラについてソアイモスという男に、叔父のヨセフスの時と同じく「ヘロデ死亡時は両者も処刑」という命令を与えていたのだが、今回もこれをマリアムネは知ってヘロデを完全に嫌うようになり、これに彼女と仲が悪いヘロデの母と妹も対立をあおるようになった結果、ヘロデの毒殺未遂事件が起きてマリアムネが犯人とされ[注釈 34]調査の結果ソアイモスへの命令の内容もマリアムネが知っていたことからソアイモスは即刻処刑、マリアムネもその後処刑された(紀元前29年頃 [注釈 35])が、ヘロデにとってもこれは痛手でこの後サマリアで病気になり、さらに寝込んでいる最中にアレクサンドラがエルサレムの要塞を乗っ取ろうとしたため彼女も処刑したが、こういったこともあり病気が治ってからも不機嫌でさらに粛清を続け[22]、妹のサロメの夫コストバロス(イドメアの元祭司の家系だった人物)、ならびに自分とコストバロス双方の友人であるリュシマコス、ガディアスと呼ばれたアンティパトロス、ドシオテス。


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