ヘルムート・ヴァルヒャ
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ヘルムート・ヴァルヒャ
Helmut Walcha
生誕
1907年10月27日
ドイツ帝国
ザクセン王国 ライプツィヒ
死没 (1991-08-11) 1991年8月11日(83歳没)
ドイツ ヘッセン州
ダルムシュタット行政管区
フランクフルト・アム・マイン
ジャンルバロック音楽
職業オルガン奏者
チェンバロ奏者
担当楽器オルガン
チェンバロ
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ヘルムート・ヴァルヒャ(Helmut Walcha, 1907年10月27日 ライプツィヒ1991年8月11日 フランクフルト・アム・マイン)は、ドイツオルガンチェンバロ奏者[1]。1947年から1952年にかけてモノラルで録音したものと、1956年から1971年にかけてステレオで録音したもの、合わせて2種類の『バッハ・オルガン作品全集』を完成させた[2]バッハ鍵盤楽器曲演奏における20世紀最高の権威[2][3]、「もっとも優れたバッハ解釈者の1人」[4]と評される。ワルヒャとも表記される[4]
生涯

郵便局員である父エミール・ヴァルヒャ(Emil Walcha)と音楽愛好家の母アンナ・フィッケン(Anna Ficken)の間にライプツィヒで生まれる[5][1]

1歳のときの予防注射の後遺症で極度に視力が弱くなる[2]。父母があらゆる治療を受けさせ、視力は僅かに回復する[5]

少年時代、姉から楽譜の読み方を習い、音楽にいそしむようになる。弱視のために楽譜全体を見ることはできず、各声部を別々に読み取って記憶し、組み合わせて一つの楽曲にまとめ上げたという。このころから、オルガンに興味を持ち、近所の教会のオルガンで練習していたらしい[5]

12歳の時、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコントラバス奏者が、ヴァルヒャの演奏を聴き、アルトゥール・ニキシュのもとへ連れて行った。ニキシュは、彼の演奏を聴き、正規の音楽教育を受けさせることを勧めた。そして、このコントラバス奏者から1年間ピアノを教わる[5]

1922年、ライプツィヒ音楽院に入学し、1927年までギュンター・ラミンに師事する[2]。在学中に慢性の角膜炎を発症。16歳のとき失明した[1]が、家族の支援で演奏活動をつづけた。

1924年、ライプツィヒ・聖アンドレ教会でオルガン・コンサートを開きデビュー。成功を収める。人々から同情的な評価を受けるのを嫌がったために、新聞には盲目であることを書かないように頼んだという[5]

1926年、ラミンの助手として聖トーマス教会の副オルガニストに就任。翌年、音楽院のオルガニスト資格試験を最優秀の成績で通過し、音楽院を卒業する。

1929年フランクフルトのフリーデン教会のオルガニストに就任する[2]。同年、同地に拠点を置く。

1933年からフランクフルト高等音楽学校のオルガン科教師を務める。1938年にこの学校はフランクフルト音楽大学となり、教会音楽家教授に任命される。

1939年、ウルズラ・コッホ(Ursula Koch)と結婚する[5]

1944年、フランクフルトのドライケーニゲ教会のオルガン奏者に就任する[6]

フランクフルトに拠点を置いてからは、バッハの『オルガン作品全集』の録音を2度にわたり完成した他、バッハの鍵盤作品について楽譜の校訂作業、オルガンと作曲の教授として講義のみならず自ら模範演奏を行うといった学生への教育活動に従事する。1950年には、ゲッティンゲンで開催されたバッハ没後200年記念音楽祭に出演して、バッハのオルガンとチェンバロの代表曲を演奏した[2]

1977年に高齢と健康上の理由で演奏活動から引退した[2]

1991年フランクフルト・アム・マインで死去した[1]
評価

バッハ鍵盤楽器曲演奏における20世紀最高の権威とされ[2][3]、「みごとな構成力と精神性の表出を一致させたバッハ解釈により、つねに20世紀のもっとも優れたバッハ解釈者の1人として高い評価と尊敬を集め」た[4]

ヘルムート・ヴァルヒャの最大の業績は、J.S.バッハのオルガン作品をモノラル録音、ステレオ録音の2度にわたり録音[7]して、2種類の『バッハ・オルガン作品全集』を完成させた[2]ことであるが、LPレコードやステレオ録音の登場など録音技術が進歩・変化した時期であったこともあり、完成には多くの年月を費やした。

音楽レーベルアルヒーフ(ARCHIV PRODUKTION)では、1949年から1950年に出された趣意書の中で、バッハの全オルガン作品をヘルムート・ヴァルヒャの演奏によってレコード化することを計画しており、1947年8月には、リューベックの聖ヤコビ教会の小オルガンを使用して録音を開始していた。しかし、このオルガンでの録音は、ペダル機構の音響面での問題と、交通騒音の増加により、断念せざるを得なくなった。次に、録音技師やヴァルヒャが目を向けたのが、カペルのシュニットガー・オルガンである。


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