ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ
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ヘルムート・フォン・モルトケ
Helmuth von Moltke
1910年
渾名小モルトケ
生誕1848年5月25日
プロイセン王国 メクレンブルク・ゲルスドルフ
死没 (1916-06-18) 1916年6月18日(68歳没)
ドイツ帝国
プロイセン王国 ベルリン
所属組織 プロイセン王国陸軍
ドイツ帝国陸軍
軍歴1868年 - 1916年
最終階級 陸軍上級大将
墓所ベルリン軍人墓地
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ヘルムート・フォン・モルトケHelmuth von Moltke
ドイツ帝国陸軍
第4代陸軍参謀本部総長
在任期間1906年1月1日 - 1914年9月14日
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ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(Helmuth Johann Ludwig von Moltke, 1848年5月25日 - 1916年6月18日)は、ドイツ帝国軍人。ドイツ帝国参謀総長。伯父ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)と区別して小モルトケと呼ばれる。シュリーフェン・プランを修正実行し、自らの先入観で第一次世界大戦を事実上開始した。
生涯
家系

1848年にメクレンブルク地方のゲルスドルフで生まれる。モルトケ家はメクレンブルクの古い貴族の家系であり、祖父フリードリヒ・フィリップ・ヴィクトール・フォン・モルトケ(ドイツ語版)はプロイセン軍とデンマーク軍の将軍、父アドルフ・フォン・モルトケ(ドイツ語版)はラウエンブルクの官吏を務め、母アウグステもアンハルト=ベルンブルクの名家出身だった[1]。弟フリードリヒ・フォン・モルトケ(ドイツ語版)は、1912年にヴィルヘルム・フィルヒナーと共に南極探検を行い、後年プロイセン州内務大臣を務めた。

名前はプロイセン王国・ドイツ帝国の陸軍参謀総長を務めた伯父大モルトケにあやかり「ヘルムート」と名付けられた。1878年にエリザ・フォン・フイトフェルトと結婚した。エリザは熱心なクリスチャン・サイエンスの信者であり、指導者のフランシス・ジール(ドイツ語版)が妻を治癒する姿を見て感銘を受け信者となった。
軍人
参謀総長就任1905年、ヴィルヘルム2世(中央左側の馬上の人物)とモルトケ(中央右側の馬上の人物)

1871年の普仏戦争に第7擲弾兵連隊で従軍。1875年に士官学校入学し、1878年に卒業。1880年よりプロイセン参謀本部で勤務し、1882年に大モルトケの副官となり、1891に伯父が死去するとドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の副官を務めた。1902年に近衛第1歩兵師団長に任命され、1904年に参謀次長に任命される。

1906年に退役したアルフレート・フォン・シュリーフェンの後任として参謀総長に就任する。この人事は参謀本部内では不評だったが、祖父ヴィルヘルム1世に倣い「自分のモルトケを持ちたい」と願うヴィルヘルム2世の強い希望により押し通された[2]。これに加え、参謀総長候補に挙げられていたカール・フォン・ビューロウコルマール・フォン・デア・ゴルツは自立心が強く、ハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーはシュリーフェンに近かったためヴィルヘルム2世に忌避され、自身の側近であるモルトケを選んだという[3]:68[3]:71。モルトケは1909年に最高勲章である黒鷲勲章を授与されるなど、ヴィルヘルム2世から絶大な信頼を寄せられていた。

参謀総長就任間もなく、モルトケは対仏侵攻計画シュリーフェン・プランの改訂を行い、シュリーフェンが計画した右翼を重視する作戦を放棄して均等に割り振り、中央部を厚くした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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