ヘルムート・マルコ
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ヘルムート・マルコ
Helmut Marko
レッドブル時代
2016年オーストリアグランプリ
基本情報
国籍 オーストリア
出身地シュタイアーマルク州グラーツ
生年月日 (1943-04-27) 1943年4月27日(81歳)
F1での経歴
活動時期1971-1972
所属チーム'71 マクラーレン
'71-'72 BRM
出走回数10 (9スタート)
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント0
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1971年ドイツGP
最終戦1972年フランスGP
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ヘルムート・マルコ(Helmut Marko 、1943年4月27日 - )は、オーストリア出身の元レーシングドライバー、実業家法学博士弁護士ホテル経営者。

若き日はF1耐久レース等出場しル・マン24時間レースの優勝実績を持つ。引退後はモータースポーツ裏方の道へ進み、2000年代から母国のF1コンストラクター「レッドブル・レーシング」の顧問に就いている。
略歴
レーサーとしての経歴若き日のマルコ(1970年)カイマン・チーム時代の同僚たち(2009年、左からエリック・ブレインズベルク、ニキ・ラウダ、ヘルムート・マルコ、クルト・ベルクマン)

一つ年上の友人だった後のF1世界王者ヨッヘン・リントと共に、在学中からモータースポーツの世界に関わるようになる。

1967 年に法学博士号を取得し、ポルシェ・ザルツブルクチームのフォーミュラ・Veeからキャリアをスタートさせ、卒業の翌年、25歳の1968年にはカイマン・チームに移籍し、オーストリア・チャンピオンに輝く。1969年のカイマンでは家族に内緒でキャリアをスタートさせていて、2着、優勝と好成績を出したニキ・ラウダと同僚だった。この年にはF3にも参戦し、スポーツカーレースにも進出し、マルティーニ・レーシングから出場した1970年のル・マン24時間レースでは総合3位に入選。クラスでは1位を獲得している。

1971年8月15日の母国グランプリでF1デビューを果たすが[1]、6歳年下のラウダも同日のF1デビュー戦となる。

BRMのレギュラーシートを確保し、1972年にかけて最終的に10戦のF1レースに参戦するも、選手権ポイントの獲得はならなかったが、この翌年のBRMのレギュラーシートには、ラウダが座る。マルコが駆った ル・マン24時間優勝車「ポルシェ917K」

1971年の耐久レースでは前年に引き続きル・マン24時間レースに参戦。マルティニ-ポルシェ・917Kを操りジィズ・ヴァン・レネップと組んで総合優勝を果たした。このレースで更新された走行距離記録の5335.313 kmは、2010年に破られるまで長らく保持された。

1972年タルガ・フローリオでは、安全上の懸念があるにもかかわらず、数分の遅れを取り戻すため、ファステストラップを更新して追い上げたが、最終的には数秒差で敗れ2位となった。このとき、同5月21日にマルコがアルファロメオ・ティーメB33で記録した33分41秒(平均128.253km/h)は、720kmのレース中のラップタイムとしてはタルガ・フローリオ史上最速記録である[2][3]

だが数週間後の7月2日、クレルモン・フェランで開催されたF1 1972年フランスグランプリで、縁石のないコーナーをカットした前車エマーソン・フィッティパルディのマシンが小石を跳ね上げ、これが後ろを走る彼のバイザーを突き抜けて目に当たった。失明こそ逃れたがレーシングに必要な視力は戻らず、その年でレーシングドライバーとしてのキャリアは終了した[4]
ドライバー引退後

レースキャリア終了後はグラーツ近郊に2つのホテルを開くが、その後もモータースポーツとの関係は継続的なものだったようである。後のゲルハルト・ベルガーカール・ヴェンドリンガーのマネージャーとして良く知られているが、ベルガーのモータースポーツキャリアに関しては決定的な役割を果たした。

1990年から、F3F3000のチーム、RSMマルコの運営を開始し、1996年にはヨルグ・ミューラー国際F3000選手権でチャンピオンを獲得した。そしてレーシングチームRSMマルコは、ドリンクメーカーのレッドブルが運営する若手ドライバー育成プログラム「レッドブル・ジュニアチーム」としてリニューアル。自身はその責任者となり、セバスチャン・ベッテルらを育てた。

2004年11月、ジャガー・レーシング F1チームを買収し、レッドブル・レーシング設立からチームの役員としてディレクターを務める。さらに2007年頃からは、チームの最高顧問的なアドバイザーとして働いている。この役職は「実際には正式な肩書きも契約書を交わしたわけでもなく、オーナーで友人のディートリッヒ・マテシッツとの信頼関係で成り立っていた」と後年に明かしている[5]

上記2つのホテルの他、2017年と2020年にもグラーツでホテルを開き、現在4つのホテルのオーナーである。
国際F3000 年度別成績

年選手権チーム国籍車体エンジン/タイヤNo.ドライバー123456789101112D.PD.CT.PT.C
1990国際F3000 RSMマルコオーストリアローラ
T90/50フォード・
コスワースADONSILPAUJERMNZPERHOCBRHBIRBUGNOG213th
39 カール・ヴェンドリンガーDNQ14DNQRetRet5DNQ109221st
39 エレン・ローアDNQ0NC
1991国際F3000 RSMマルコオーストリアレイナード
91Dフォード・
コスワースAVLLPAUJERMUGPERHOCBRHSPABUGNOG69th
39 カール・ヴェンドリンガー5Ret3RetRet612th
1992年-1995年:「RSMマルコ」は競技せず
1996国際F3000 RSMマルコオーストリアローラ
T96/50ザイテックANURPAUPERHOCSILSPAMAGESTMUGHOC572nd


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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