ヘルムート・コール
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ドイツ政治家ヘルムート・コールHelmut Kohl
1989年のコール首相
生年月日 (1930-04-03) 1930年4月3日
出生地 ドイツ国
バイエルン自由州
ルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン
没年月日 (2017-06-16) 2017年6月16日(87歳没)
死没地 ドイツ連邦共和国
ラインラント=プファルツ州
ルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン
所属政党キリスト教民主同盟(CDU)
配偶者ハンネローレ・コール(旧姓レンナー)
サイン
ドイツ連邦共和国
第6代 連邦首相
在任期間1982年10月4日 - 1998年10月27日
連邦大統領カール・カルステンス
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー
ローマン・ヘルツォーク
ラインラント=プファルツ州首相
在任期間1969年5月19日 - 1976年12月2日
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ヘルムート・ヨーゼフ・ミヒャエル・コール(Helmut Josef Michael Kohl、1930年4月3日 - 2017年6月16日)は、ドイツ(旧西ドイツ)の政治家1982年から1998年までの16年にわたって首相を務めた彼は、冷戦終結の波に乗り、1990年に東西に分裂していたドイツの再統一を成し遂げ、時の人となった[1]
来歴
CDU党首への道

1930年4月3日、ドイツのバイエルン州プファルツ地方ルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン(現在はラインラント=プファルツ州)に、バイエルンの財務官吏の3番目の子としてカトリック教徒の家庭に生まれた。兄の一人であるヴァルターは1944年11月にドイツ国内で空襲を受けて戦死するが、コール自身は戦争末期にヒトラーユーゲントで軍事教練を受け、ドイツ空軍の対空砲補助員として徴集されたものの、生年のわずかな差が影響して戦闘には参加しなかった。早くもギムナジウム在校中の1946年キリスト教民主同盟(CDU)に入党した[2]。その後1950年から、フランクフルト大学およびハイデルベルク大学法学歴史学政治学を学び、1956年から同大学で助手を務めて1958年に「プファルツにおける政治変遷と政党の再建」という論文で博士号を取得する。翌年鉄工所の経営や産業団体の顧問を務め、1948年からの知り合いだったハンネローレ・レンナーと結婚する。2人は2男をもうけた。コール(1969年)

コールはCDUの青年団組織 Junge Union (JU)の地元での設立にかかわり(1947年)、在学中の1953年に党の州支部事務局に加入した。1954年には州のJU副代表、翌年州の党執行部委員に就任した。1959年には地元ルートヴィヒスハーフェン郡の党代表となり、翌年ルートヴィヒスハーフェン市議会の党議員団長。1963年からラインラント=プファルツ州議会の党幹事長。1966年、党の州支部代表に就任し、同時に党の連邦代表委員の一人となる。1969年5月19日にラインラント・プファルツ州首相に就任し、CDU副党首となる。州首相として郡の再編成とトリーア大学・カイザースラウテルン技術大学の創建にかかわった。彼の地元での有力支持勢力は産業界であった。

1971年クルト・ゲオルク・キージンガーの後継党首選挙に挑むが、ライナー・バルツェルに敗れた。しかしバルツェルは1972年ドイツ社会民主党(SPD)の連邦首相ヴィリー・ブラントに対する建設的不信任案決議が不成立となったことからその威信は著しく低下し、翌年コールが党首に就任した。1976年、初めてドイツ連邦議会選挙に首相候補として挑み、得票率48.6%の好成績を収めて第一党となるが、SPDと自由民主党(FDP)の連立政権からの政権奪取はならなかった。この選挙でコールは連邦議会議員に転じて議員団長となり、州首相を辞任した。1980年の連邦議会選挙では、経験に勝る姉妹政党キリスト教社会同盟(CSU)のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス党首に首相候補の座を譲る忍従を強いられたが、この選挙でもCDU・CSUは勝てなかった。1989年11月、ポーランドを訪問しドイツ系住民に歓迎されるコール。このポーランド訪問中にベルリンの壁崩壊がおき、急遽ベルリンへ向かうことになる。
連邦首相に

ところが1982年9月、財政再建・新自由主義を取るか社会保障社会民主主義を取るかで与党FDPとSPDが決裂。コールはすかさずFDPと連立協議し、10月1日ヘルムート・シュミット首相に対する建設的不信任決議案を提出。この案にFDPが同調してシュミットの罷免とコールの第6代連邦首相就任が決まった。建設的不信任決議案が提出されたのは2度目だが(既述)、可決したのは今のところこれが唯一の例である。副首相兼外相にはシュミット政権時代同様、連立与党FDPのハンス・ディートリヒ・ゲンシャーがおさまった。しかしこのようなやり方で政権を奪取したうえ、長らく地方政界にあり、前任者のブラントやシュミットと比較して国際政治に通暁していないとしてコールの手腕を不安視する向きもあった。このためコールは政権発足後の1982年12月に内閣信任決議案を提出、これを与党議員の欠席で意図的に否決させることで、大統領の議会解散令を引き出した。総選挙は1983年3月に実施され、連立与党が勝利を収め、ようやく政権は安定した。

コールが最初に取り組んだのは、ワルシャワ条約機構に対しての抑止力となるNATOの軍事力強化(ミサイル配備)で、国内での平和運動が盛んになる中、これを実行した。隣国フランスとの同盟強化にも努め、1984年にはフランス大統領フランソワ・ミッテランと共に第一次世界大戦の激戦地ヴェルダンを訪問し、二人で手を繋いで戦死者を鎮魂し両国の友好を誓った。この姿は独仏関係の新時代を象徴するものとして有名であり、のちに独仏連合部隊や独仏共同テレビ局アルテの創設、さらにはマーストリヒト条約締結や欧州共同通貨ユーロ導入での「独仏枢軸」と呼ばれる緊密な協力関係へと繋がっていく。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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