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ヘルムート・フォン・モルトケ
Helmuth von Moltke
モルトケの肖像写真
渾名大モルトケ[1]
近代ドイツ陸軍の父[2]
偉大なる沈黙者[2]
生誕1800年10月26日
神聖ローマ帝国
メクレンブルク=シュヴェリーン公国 パルヒム
デンマーク陸軍
プロイセン陸軍
ドイツ帝国陸軍
プロイセン王国陸軍
軍歴1819年 - 1822年
(デンマーク陸軍)
1822年 - 1888年
(プロイセン陸軍)
最終階級 陸軍少尉
(デンマーク陸軍)
陸軍元帥
(プロイセン陸軍)
署名
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ヘルムート・フォン・モルトケHelmuth von Moltke
所属政党ドイツ保守党
プロイセン王国
貴族院終身議員
在任期間1872年1月28日 - 1891年4月24日
貴族院議長アドルフ・ツー・アルニム=ボイッツェンブルク
ヴィクトル1世・フォン・ラティボル
ドイツ帝国帝国議員
選挙区メーメル・ハイデクルーク
在任期間1867年2月 - 1891年4月24日
帝国議会議長エドゥアルト・フォン・ジムゾン
?(4代略)
アルベルト・フォン・レフェツォウ
プロイセン王国陸軍
第11代陸軍参謀本部総長
在任期間1857年10月7日 - 1888年8月10日
皇帝ヴィルヘルム1世
フリードリヒ3世
ヴィルヘルム2世
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ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ(伯爵)・フォン・モルトケ(Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke, 1800年10月26日 - 1891年4月24日) は、プロイセンおよびドイツの貴族、陸軍軍人、政治家 、軍事学者。爵位は伯爵で陸軍の最終階級は元帥。
1858年から1888年にかけてプロイセン参謀総長を務め、対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争を勝利に導き、ドイツ統一に貢献した。近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。
甥にあたるヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ)[注釈 1]と区別して、大モルトケと呼ばれる[3][注釈 2]。また明治時代の文献にはモルトケを「毛奇」と表記する物がある[4]。 ドイツ連邦北東の領邦メクレンブルク=シュヴェリーン公国の出身。父はメクレンブルク貴族でプロイセン軍人だったが、後に退役してデンマーク王国と同君連合下にあったホルシュタイン公国へ移住し、デンマーク軍人となった人物だった。 モルトケもデンマークの幼年士官学校に入学し、1818年にデンマーク軍少尉に任官したが、1822年にはプロイセン軍へ移籍した。プロイセン陸軍大学校を出て参謀将校となる。1835年から1839年にかけては軍事顧問としてオスマン帝国に派遣されている。その後、参謀畑と王族の侍従武官の任を経て、1858年にプロイセン参謀本部の参謀総長に任じられた。しかし当時の参謀本部の地位は低く、1863年の対デンマーク戦争前半戦では作戦指導に直接介入できない立場だったが、和平交渉決裂後の後半戦でようやく作戦介入ができる立場になった。この戦争の勝利で影響力を高め、1866年の普墺戦争と1870年の普仏戦争では全面的な作戦指導を任された。 モルトケの戦略は「分散進撃・包囲・一斉攻撃」を特徴とし、敵戦力の撃滅を主張するクラウゼヴィッツの思想を受け継いでいる。それを可能にするために鉄道や電信など新技術の導入に積極的であった。その戦略に基づいた作戦指導の結果、普墺戦争と普仏戦争を勝利に導いた。とりわけ普墺戦争のケーニヒグレーツの戦いと普仏戦争のセダンの戦いは高く評価される。 普仏戦争の勝利によってドイツ各諸邦はプロイセンの主導するドイツ帝国に統一された。ドイツ帝国樹立後はフランス共和国とロシア帝国に対する予防戦争を求め、二正面作戦の計画を立てていたが、1888年に高齢を理由に参謀総長を辞した。1891年にベルリンで死去した。
概要
生涯
生誕パルヒムのモルトケの生家。