ヘルマン・ヴーハープフェニッヒ
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ヘルマン・ヴーハープフェニッヒ
Hermann Wucherpfennig
生誕 (1884-06-27)
1884年6月27日
出身地 ドイツ帝国 テューリンゲン州 ミュールハウゼン
死没 (1969-08-29) 1969年8月29日(85歳没)
西ドイツ
バーデン=ヴュルテンベルク州
カールスルーエ
ジャンルクラシック音楽
職業声楽家バス
音楽教育者
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ヘルマン・ヴーハーペニッヒ

ヘルマン・ウーハーペニッヒ

ヘルマン・ヴーハープフェニヒ

ウーハー・ペーニッヒ
ドン・ジョヴァンニ』の騎士長に扮するヴーハープフェニッヒ

ヘルマン・ヴーハープフェニッヒ(ドイツ語:Hermann Wucherpfennig、1884年(明治17年)6月27日 - 1969年(昭和44年)8月29日)は、ドイツ声楽家バス)、音楽教育者。外国人教師として来日し、日本の声楽家を数多く育てた。ヴーハープフェニッヒと彼の妻は、ナチス政権の間に亡命生活をしなければならなかった避難民の音楽家であった。
経歴

ドイツテューリンゲン州ミュールハウゼンに生まれる。当初は言語学を専攻し、博士号も取得している。主に、忘れられていたバロック音楽の作曲家ヨハン・フリードリヒ・アグリコーラに関して論文を発表している。同時にデッサウのバス歌手ルドルフ・フォン・ミルデと、ベルリンのV.モラッティに師事した。

1905年(明治38年)デッサウ市立劇場(現:旧劇場)と契約し、歌手としての活動を開始した(1909年(明治42年)まで)。1908年(明治41年)および1909年(明治42年)には合唱団員として、1911年(明治44年)には合唱団員と『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の夜警として、夏のバイロイト祝祭劇場に出演。1909年(明治42年)からニュルンベルク州立劇場で3シーズン出演。1912年(明治45年/大正元年)にイルマ・ラーフェンと結婚。その後の4シーズンはデュッセルドルフ歌劇場で、1916年(大正5年)からベルリンシャルロッテンブルク市立オペラ(現:ベルリン・ドイツ・オペラ)で6シーズンを過ごした。ヴーハープフェニッヒは、文化の中心である伝統的なオペラハウスヴェルディワグナーの主要な役や、オッフェンバックホフマン物語』のクレスペルと、オイゲン・ダルベール『低地(Tiefland)』のトマソを引き継いだだけでなく、コミックオペラにも出演した。例えば、今日は演奏されなくなったエイメ・マイラートの『隠者の鐘』などである。

1920年(大正9年)にはベルリン国立歌劇場にゲスト出演し、1924年(大正13年)に南米の大規模なツアーを行い、ノルウェーハンガリーでのゲスト公演にも出演した。1922年(大正11年)から1931年(昭和6年)まで、カールスルーエ州立劇場の合唱団に所属し、妻と一緒にカールスルーエに声楽学校を開設していた。1932年(昭和7年)ヴーハープフェニッヒは東京音楽学校声楽科の教授に任命された。彼は日本でバス歌手として演奏も行った。マリア・トル(ヴーハープフェニッヒと同じく東京音楽学校の外国人教師。1932年(昭和7年) - 1938年(昭和13年)在籍[1])とともに、ドイツのアリアの数々を紹介した。1934年(昭和9年)11月16日、東京のドイツ大使館は、ヴーハープフェニッヒなどが「日本の音楽生活におけるドイツの影響力の強化」に貢献したと報告している[2]。大使館の評価は、1943年に(昭和18年)ヴーハープフェニッヒの妻がいわゆる「完全なユダヤ人[3]」であると判明したときに一変した[4]。ドイツ政府の介入により、ヴーハープフェニッヒは東京音楽学校教授を解任された[5]

ヴーハープフェニッヒは1946年(昭和21年)に東京音楽学校に戻り、1953年(昭和28年)まで日本に留まった。武蔵野音楽学校でも教壇に立っている[6]


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