ヘルマン・フォン・ザルツァ
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ヘルマン・フォン・ザルツァ(17世紀)

ヘルマン・フォン・ザルツァ(Hermann von Salza、1165年 - 1239年3月20日)は、ドイツ騎士団第4代総長(在位:1209年[1][2]/10年[3] - 1239年)。

神聖ローマ帝国ローマ教皇の両方と繋がりを持つ優れた外交官であり、騎士修道会プロイセン地方への東方植民を監督した。困難をはねのけてプロイセンに拠点を築いた人物であり、後世の人間からは「13世紀のビスマルク」「中世最大のドイツ人政治家」と評価されている[3]
生涯
ドイツ騎士団入団まで

ヘルマンはテューリンゲン方伯に仕えるミニステリアーレの一家の出身であり[1][2]、ランゲンザルツァ(英語版)で生まれたと思われる。

テューリンゲン方伯ルートヴィヒ3世とともに1189年から1191年にかけてのアッコン包囲(en:Siege of Acre (1189?91))に参加した。また、アッコン包囲が行われていた時、ドイツ騎士団の前身である野戦病院が設立された[4]

1197年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が実施した十字軍にはテューリンゲン方伯ヘルマン1世とヘンネベルク伯オットーとともに参加し、エルサレム王アモーリー2世の戴冠式に同席した。ハインリヒ6世の死によって十字軍が中止され、アッコンが陥落した後、ドイツ騎士団の前身である野戦病院は存立の危機に陥った[5]。野戦病院は総長ハインリヒ・ワルポット・バッセンハイムの元で聖地奪還の拠点を確立するべく、軍事集団として目的を新たに再建される[3]1198年、ヘルマンは役割を新たにしたドイツ騎士団に入団する[1]

総長就任後、数年の間は地中海方面で活動し、騎士団の活動範囲はイベリア半島からバルト海方面のリヴォニアにまで広がった。
聖地での活動

1215年までヘルマンはパレスチナキプロス島に滞在し、騎士団の所領を視察した[6]。1215年にローマで開催された第4ラテラン公会議に出席、翌1216年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の宮廷を初めて訪れる[6][7]。1216年以後ヘルマンはフリードリヒに近侍し、あるいは彼の使者として各地を飛び回った[8]

ヘルマンは皇帝フリードリヒ2世の友人であり[9]、また有能な参謀でもあった[10]。ヘルマンは神聖ローマ帝国と教皇庁の間に立つ仲介者として活躍し[6]、ホノリウス3世はヘルマンの能力を認め、騎士団に聖ヨハネ騎士団テンプル騎士団と並ぶ地位を認めた。

1219年にヘルマンはエジプトのダミエッタを攻撃する第5回十字軍に参加し、ジャン・ド・ブリエンヌから武勇を称えられた。第5回十字軍に参加しなかったフリードリヒ2世に十字軍への従軍を促すため、ヘルマンはフリードリヒとジャン・ド・ブリエンヌの娘ヨランドの結婚に部分的に関わった。十字軍への参加を渋るフリードリヒと、参加を迫る教皇ホノリウス3世の間を取り持ち、1227年の秋にはフリードリヒは十字軍の参加を誓約した[11]

フリードリヒが実施した第6回十字軍にはヘルマンも付き従った。


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