ヘルマン・フェーゲライン
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ヘルマン・フェーゲライン
Hermann Fegelein
1942年、東部戦線のフェーゲラインSS大佐(当時)
生誕1906年10月30日
ドイツ帝国
バイエルン王国アンスバッハ
死没1945年4月29日
ドイツ国
プロイセン自由州ベルリン
所属組織 ヴァイマル共和国陸軍
親衛隊(SS)
武装親衛隊
軍歴1926年‐1927年(陸軍)
1933年‐1945年(親衛隊)
最終階級

親衛隊中将
武装親衛隊中将
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ハンス・ゲオルグ・オットー・ヘルマン・フェーゲライン(Hans Georg Otto Hermann Fegelein、1906年10月30日 - 1945年4月28日)は、第二次世界大戦中のドイツの軍人。ナチ党の組織親衛隊(SS)の戦闘部隊武装親衛隊(Waffen-SS)の将軍。最終階級はSS中将及び武装SS中将(SS-Gruppenfuhrer und Generalleutnant der Waffen-SS)[1]。彼はアドルフ・ヒトラーの側近であり、エヴァ・ブラウンの妹グレートルと結婚したため、エヴァの義理の弟にあたる。フェーゲラインは1925年、ヴァイマル共和国軍の騎兵連隊に入隊し、1933年4月10日、SSに入隊。SSの騎兵部隊のリーダーになり、1936年、ベルリンオリンピックの馬術競技の準備責任者を務めた。自身も馬術競技に参加するも予選敗退した。

1939年9月1日のポーランド侵攻時には、フェーゲラインは親衛隊髑髏部隊を指揮した。フェーゲラインの部隊は12月までワルシャワの守備にあたり、ベルギーの戦い並びにフランス侵攻において、親衛隊特務部隊(後に武装親衛隊に改名)として参戦した。一連の戦役により、フェーゲラインは1940年12月15日に二級鉄十字章を授与された。1941年の独ソ戦東部戦線ではプリピャチにおいて17,000人の民間人の虐殺を行なった。1943年には、第8SS騎兵師団の司令官となり、ソ連赤軍に対する防衛任務や対パルチザン作戦に従事し、白兵戦章銅章が授与された。1943年9月に重傷を負い、フェーゲラインはヒムラーの命により、ヒトラーの作戦本部の連絡将校に任命され、SSの幹部となった。フェーゲラインはヒトラー暗殺計画時の現場の会議にも参加しており、終戦間際には総統地下壕で勤務し、ヒトラー自決(1945年4月30日)の2日前の1945年4月28日、逃亡の罪で銃殺された。歴史家のマイケル・D・ミラーはフェーゲラインを日和見主義者でヒムラーと取り入ることで出世をもくろみ、ヒムラーもそれにこたえ、フェーゲラインに重要な任務やスピード出世を与えていたと考えている。ジャーナリストのウィリアム・L・シャイラーと歴史家のイアン・カーショーはフェーゲラインをシニカルで周りからの評判が悪い人物と評した。アルベルト・シュペーアはヒトラーの取り巻きの中で最も不快な人物の一人だったと評している[2]
生涯
前半生

フェーゲラインは退役軍人ハンス・フェーゲラインを父親としてバイエルン王国アンスバッハで生まれた。ミュンヘンで父親が経営する乗馬学校で働き、乗馬に才能を発揮し、乗馬のイベントに参加した。この期間、彼は、クリスティアン・ヴェーバーと出会い、ナチス党に入党した。ヴェーバーは後にフェーゲラインがSSに入隊するための支援をした[3]

1925年、ミュンヘン大学で学んだ後、フェーゲラインは第17歩兵連隊に入隊した。1927年4月20日、彼はミュンヘンで警察官になった[4]。1929年、彼は教育担当の上長のオフィスから試験問題を盗んだことが発覚し、警察を退職した。その当時は家族の事情により退職したとされた。フェーゲラインは後に、警察を退職したのはナチス党とSSに入ることでより良い待遇を受けるためだったと語っている。フェーゲラインの父親は1926年に会社を設立した。ミュンヘンにおいて、フェーゲラインはナチス党並びにSSと接触した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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