ヘルベルト・フォン・カラヤン
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ヘルベルト・フォン・カラヤン
Herbert von Karajan
1963年
基本情報
出生名Heribert Ritter von Karajan
生誕 (1908-04-05) 1908年4月5日
オーストリア=ハンガリー帝国ザルツブルク
死没 (1989-07-16) 1989年7月16日(81歳没)
 オーストリア、アニフ
学歴ザルツブルク・モーツァルテウム大学ウィーン音楽院
ジャンルクラシック音楽
職業指揮者
活動期間1929年 - 1989年
レーベルEMIドイツ・グラモフォン
ソニー・クラシカルデッカ
公式サイト ⇒http://www.karajan.org/
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ヘルベルト[注 1]・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, ドイツ語: [?h??b??t f?n ?kara?jan] ( 音声ファイル), 1908年4月5日 - 1989年7月16日)は、オーストリア=ハンガリー帝国、ザルツブルク公国(英語版)ザルツブルク生まれの指揮者1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王[2]と称されていた。また、その独自の音楽性と自己演出は「魔術師カラヤン」[3]「カラヤン美学[4]などと謳われ時代の寵児にもなった。
人物・来歴オーストリア・ザルツブルクにあるカラヤンの生家父・エルンスト(1868-1951)と母・マルタ(1881-1954)兄・ヴォルフガング、2人の友人とともに写る幼少期のカラヤン

カラヤンは1908年にザルツブルク公国(英語版)のザルツブルクで、騎士 (Ritter) の子として生まれた。兄のヴォルフガング・フォン・カラヤン(ドイツ語版)(1906年 - 1987年)も後に音楽家になっている。先祖は東ローマ帝国に仕えたギリシャ人カラヤニス家(Karaiannis, Caragianni)の出身であるといわれているが、ギリシャ化したアルメニア人スラブ系マケドニア人の説もあり)だという説もある。カラヤンのカラはテュルク語で「黒」を意味するが、バルカン言語地域ではその語は存在しない。アルーマニア人中世東ローマ帝国時代にギリシャ北部、マケドニアなどの山岳部に住んでいた、ラテン語系統の言語を話す少数民族。ヴラフ人とも呼ばれ、ルーマニア人の先祖ではないかともいわれる)の子孫という説もある[5][6]。高祖父のゲオルク・ヨハネス・カラヤニスは現在のギリシャ共和国のコザニに生まれて1767年にウィーンへ向けて出発し、最終的にはザクセン選帝侯領ケムニッツに定住した[7][8]。ゲオルク・ヨハネスは兄弟と共にザクセンの服飾産業の世界で成功し、選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世に仕えて1792年6月1日爵位を受け、貴族の称号である「フォン」を添えてvon Karajanという苗字になった[9]。ヘルベルトの母方はスロヴェニア人の家系であり、民族的にはスラヴ人の血を引いている[10]。カラヤン自身は、自らがオーストリア人であることを強く自認していた。出生名はHeribert Ritter von Karajan(ヘリベルト騎士フォン・カラヤン、騎士ヘリベルト・フォン・カラヤン)だが、1919年、オーストリア・ハンガリー帝国の終結に伴う貴族制度の廃止により「騎士」「フォン」が外され、以降のオーストリアでの公式名(官公庁の証明書など)はヘリベルト・カラヤン(Heribert Karajan:母音のiが入るのはスロヴェニア系の特徴)。芸術活動を行う上でカラヤン自身が出生名(フォン入り)にこだわり、芸名(芸術家名)として「ヘルベルト・フォン・カラヤン」 (Herbert von Karajan) を名乗ることを官憲に認めさせた経緯がある。

ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院ウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。ドイツウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。1938年ベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより、翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得るとともに、イタリアのミラノ・スカラ座オペラを指揮することとなった。1941年

カラヤンは戦前期、ベルリン国立歌劇場管弦楽団をオペラ、コンサートあわせて、130回以上指揮しており、録音も一定数残している。これはウルム、アーヘンを大幅に上回る数字であり。正式のポストにこそ就かなかったものの、戦後のウィーン交響楽団、フィルハーモニア管、ウィーンフィル。


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