ヘルクラネウム
[Wikipedia|▼Menu]
エルコラーノの発掘

ヘルクラネウム(: Hercul?neum)は、古代ローマの町で、その遺跡はイタリアカンパーニャ州エルコラーノ(ヘルクラネウムがイタリア語化した名前である)のコムーネ内.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯40度48分21秒 東経14度20分51秒 / 北緯40.80583度 東経14.34750度 / 40.80583; 14.34750に位置する。現在は遺跡の一部が有料で公開され重要な観光資源となっている。

ポンペイ、スタビアエ(英語版)、オプロンティス(英語版)と共に79年のヴェスヴィオ噴火により失われたことで有名である。町は高温の火砕物に埋まり、それは冷えて火山性の凝灰岩となった。1981年に遺骨が発見されて以来、150体あまりの人骨が発見された。噴火当時ヘルクラネウムはポンペイに比較して小さな町で、より豊かな人々が住んでいた。
歴史

古い言い伝えはヘルクラネウムをギリシアの英雄ヘラクレスに関連付けており町がギリシア人により建設されたことが窺われる[1]。紀元前6世紀末頃イタリアのサムニウム人の先祖がこの場所に最初に文明を築いたようである。その後まもなくして町はギリシアの支配下に入った。ギリシア人は町をヘルクラネウムと名付けナポリ湾に近いこともあり町を貿易基地として利用した。紀元前4世紀再びサムニウム人がヘルクラネウムを支配し、その支配はヘルクラネウムも参戦した同盟市戦争(ローマに対する同盟軍の戦争)で将軍スッラの補佐官ティトゥス・ディディウスに敗れて紀元前89年にローマのムニキピウムになるまで続いた。

79年のヴェスヴィオ火山の噴火後、ヘルクラネウムの町を溶岩や土や灰が20メートル程の厚さで覆ってしまった。町はその後、1709年に井戸を掘っていた労働者に偶然発見されるまで1600年以上ほぼそのままの姿で地中に眠っていた。発見以来発掘作業が進められたが依然終了していない。現在のエルコラーノポルティチはヘルクラネウムがあった場所にほぼ位置している。エルコラーノの町は1969年までレシーナと呼ばれていたが、古代の町を記念してヘルクラネウムを現代イタリア語化したエルコラーノに改名された。

住民の信仰を一番集めていたのは町とヴェスヴィオ火山を創造したとされたヘラクレスであった。他に信仰されていた重要な神はヘラクレスの愛人と信じられていたヴィーナスおよびアポロである。
79年の噴火「79年のヴェスヴィオ噴火」も参照ヘルクラネウムなどヴェスヴィオ火山の周りの複数の都市が噴火により被害を受けた。黒い雲は灰と噴石の降下の大まかな分布を表している。

壊滅的なヴェスヴィオ火山噴火は79年8月24日の午後に起きた。ヴェスヴィオ火山はおよそ300年間活動を停止していたと思われ、もはや火山であるとは一般には認識されていなかったが一部の知識人はそう遠くない昔にヴェスヴィオが噴火していたことを認識していた[2]

考古学的な発掘と小プリニウスが歴史学者タキトゥスに宛てた2通の手紙により噴火の経過をたどることができる。

8月27日午後1時頃、ヴェスヴィオ火山から数千メートル上空まで灰と噴石が吹き上がった。噴出物が対流圏成層圏の間に到達した時の噴煙の上部が平らになったその形をプリニウスはカサマツと形容している。風は南東向きに吹いたため噴出物は主にポンペイとその周りの地域に落下した。ヘルクラネウムはヴェスビオ火山の西にあるので噴火の最初の段階ではあまり被害を受けなかった。ポンペイの家々の屋根が落ちてきた噴出物の重みで潰れたのに対して、ヘルクラネウムには灰が数センチ積もった程度であったが住民の多くはこの段階で逃げ出した。

初期の発掘で僅かな人骨しか発見されなかったため住民のほぼ全てが辛くも避難したものと長い間考えられていた。1982年に発掘が海岸のボートハウスの区域に及ぶとこの見解は改められた。考古学者たちは12のボートハウスで体を寄せ合うように群がる250もの人骨を発見した。人骨が発見されたボートハウス

夜の間、柱の様な姿で成層圏にまで達していた噴出物がヴェスヴィオに落下し始めた。火砕流が発生し、400℃のガス、灰、石が入り混じり時速160kmでヘルクラネウムに押し寄せた。午前1時頃火砕流はボートハウスに到達し、そこで助けを待っていた人々は猛烈な熱により瞬時に命を失った。このときの火砕流とそれに続く幾度かの火砕流により噴出物が下から徐々に建物を覆ったために建物は大きく損傷しなかった。

建物とその内部の物が非常に良い状態で保存されたのは以下の要因によると思われる。
風が変わりヘルクラネウムに灰が降下するまでに建物がすでに火砕物に埋もれていたため屋根が潰れなかった。

最初の火砕流の熱が有機物の表面を炭化し水分を抜き去った。

厚く(25メートルに達する)密度の高い凝灰岩がヘルクラネウムを1700年間空気からも遮断した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:22 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef