ヘナロ・エルナンデス基本情報
本名ヘナロ・エルナンデス
通称Chicanito
階級スーパーフェザー級
身長180cm
リーチ185cm
国籍 アメリカ合衆国
誕生日 (1966-05-10) 1966年5月10日
出身地カリフォルニア州
死没日 (2011-06-07) 2011年6月7日(45歳没)
死没地カリフォルニア州ロサンゼルス
スタイルオーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数41
勝ち38
KO勝ち17
敗け2
引き分け1
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ヘナロ・エルナンデス(Genaro Hernandez、1966年5月10日 - 2011年6月7日)は、アメリカ合衆国のメキシコ系米国人(ヒスパニック)の元プロボクサー。カリフォルニア州ロサンゼルス出身。元WBA世界スーパーフェザー級王者。元WBC世界スーパーフェザー級王者。元帝拳プロモーションプロモート契約選手(LAボクシングクラブで普段の練習を行っていた)。元USA帝拳代表。世界ボクシング殿堂に名を連ねる一人。 幼いころからボクシングに親しんだが、アマチュアボクシングでは4戦全敗だった。 1984年9月27日、プロデビュー。4回判定勝ちを収め、以降も連戦連勝を重ねる。 1991年11月22日、24戦目で世界初挑戦。後のWBO世界スーパーフェザー級王者のダニエル・ロンダ(フランス)とWBA世界スーパーフェザー級王座決定戦を行い、9回TKO勝ち。無敗のまま世界王座に就いた。 1992年7月15日竹田益朗
来歴
1995年6月、WBO世界ライト級王座での世界挑戦内定により王座返上(実質的には剥奪)。
1995年9月9日、WBO世界ライト級王者オスカー・デ・ラ・ホーヤに挑戦。同じカリフォルニア州出身でともに無敗という注目の対決となったが、6回に王者の強打を顔面に受け、鼻骨を骨折。この回終了後のインターバルで自ら棄権を申し入れTKO負け。2階級制覇はならず、プロ初黒星となる。
1997年3月22日、スーパーフェザー級に戻しての世界再挑戦。WBC世界スーパーフェザー級王者アズマー・ネルソン(ガーナ)に挑み、2-1(116-114、118-110、114-115)12回判定勝ち。1年9か月ぶりの世界王座返り咲きを果たした。その後、3度の防衛に成功。
1998年10月3日、4度目の防衛戦で同国人のフロイド・メイウェザー・ジュニアと対戦。8回終了TKO負けを喫し、王座陥落。この試合を最後に引退した。
引退後は総合格闘技団体「UFC」のスペイン語放送で解説者を務めていたが[2]、発症率が極めて低いとされる癌の一種「横紋筋肉腫」に侵され闘病生活に入る。2009年暮れにいったんは快復したものの、その後再発し、2011年6月7日、カリフォルニア州の自宅で死去。45歳没[3]。
人物
紳士的でフェアプレーを重んじる人物。WBA王座3度目の防衛に成功した渡辺戦では試合後、リング上で悔し涙を流す渡辺に優しい言葉を掛け慰めており、インタビューでも「渡辺は気を落とさないで欲しい」と気遣いを見せた。また、世界王座返り咲きを果たしたネルソン戦では7回終了のゴングが鳴った直後にファウルパンチを受け、しばらく起き上がれなくなるほどの深刻なダメージを負った。試合続行不可能をアピールすれば勝利は確実だったが、エルナンデスは自ら続行を志願。苦戦を強いられたが、最後は判定勝ちを収め王座返り咲きに成功。試合後、そのことについて尋ねられたエルナンデスは「ネルソンのことは尊敬しているし、何より自分はこの競技に誇りを持っている」と答えたという。
初めて世界王座を獲得する前に東京の帝拳プロモーションとマネージメント契約を締結し、以降たびたび来日した。テクニカルなボクシングと謙虚な態度で日本でも人気が高く帝拳の総帥本田明彦とも強い信頼関係を構築。また本人も大の親日家だった。
獲得タイトル
WBA世界スーパーフェザー級王座
WBC世界スーパーフェザー級王座
脚注^ a b ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年