ヘタウマ
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ヘタウマ[1][2](下手上手[3]、ヘタうま[4]、下手巧[5]とも)とは、創作活動(なかんずくサブカルチャー)において技巧の稚拙さ(つまり「ヘタ」)が、かえって個性や(つまり「ウマい」)となっている様を指す言葉[2]。技術が下手で美術的センスもないが、感覚がうまい、つまり技巧的には下手であるが人を惹きつけて止まない魅力があるものを指す[6]。ただし、稚拙さを修業不足ととるか、計算や個性、あるいは味と捉えるかは、受け手の主観によるところが大きいため明確な定義は存在しない[2]。そのためか「ヘタヘタ」という表現も存在する。
概要

物事には本来「ウマい」と「ヘタ」の相反する概念があり、上達するということはヘタな所からウマい所へ上ってゆくことで、二極の間には一筋の道が存在する[7]。しかし、両者とは全く別の尺度である「オモシロい」という「第三極」が現れ[7]、「オモシロい」物にメディアが注目すれば、大衆もこれに追随するという図式が成り立ってゆく[7]

その中で多少上手くなくとも面白ければ良い、つまり技巧にかかわらず何らかのかたちで琴線に触れる作品であれば受け入れられるという文化的基層の下に、「ヘタウマ」文化が芽生えていったといえる。
歴史

「ヘタウマ」と称される芸術思潮は他の芸術運動と異なり、明確な痕跡を残しておらず、誰が、いつ頃から、どういう必然性で、いかなる理論を基に生み出されたかは不分明である[8]。むしろ「運動」というより「文化現象」と表現する方がふさわしく、確固たる理論を持たない内に広まったものと見られる[8]

しかし、イラストレーター山藤章二の回想によると、1970年代初頭、「ヘタ」な作品を並べたあるイラストレーション展を見ていた折、知人のベテランイラストレーターと交わした以下の会話から「ヘタウマ」という言葉を初めて耳にしたという[9]。「いやぁ、面白いですねぇ。どういう一派なんですか。グループ名はあるんですか?」と私。

「そういうのはないでしょう。私たちは勝手に〈ヘタウマ派〉とよんでいますがね。自然発生的に生まれたんですよ」と、ベテラン。

「ヘタウマ?」「本当は描けばみんなウマいんだけど、わざとヘタに見えるようにしてる。言葉の順でいえばウマヘタなんだけど、それじゃ説明的でインパクトがないので逆にしてヘタウマ。うまくすると新しいムーブメントになるかも知れないけど、一過性の現象で終わるかも知れない」

山藤はイラストレーション展における「ヘタ」な絵の生命力や親近感、包容力に圧倒されるあまり、これからの文化全般に関わるキーワードになると直感したとの感想を述べている[9]

1980年代に入ると、イラストレーター漫画家湯村輝彦が使い始め、当時の日本におけるイラストレーション界を席巻するに至った[2]。嚆矢となったのは、コピーライター糸井重里が原作を、湯村がイラストを手掛けた『情熱のペンギンごはん』(1976年4月号から雑誌『ガロ』に連載開始。書籍刊行は1980年)である[2]

イラストレーターのヘタウマ派は他に、河村要助霜田恵美子らがいた。漫画家としてその後は、渡辺和博蛭子能収根本敬みうらじゅんしりあがり寿らがフォロワーとして牽引[2]。特にしりあがりは横浜美術館広島市現代美術館での展覧会や個展にてインスタレーション作品を発表しており、美術の領域にも活動の幅を広げている[2]

上記のイラストレーター、漫画家はいずれも商業的成功を収め(詳細は各人の記事を参照のこと)、一過性どころか現在に至るまで一介の文化現象として認知されている[8]

山藤[10]は「ミスターヘタウマ」を東海林さだおとして、東海林がうまさを出すと読者との距離が離れてしまうために、出さないようにしていると述べている。 徳川家光『兎図』

「ヘタウマ」という概念がすっかり定着した感のある21世紀初頭の日本において、2019年(平成31年)初頭には、美術館が公式の企画展覧会に「ヘタウマ」という用語を初めて大々的に採用した[11][12][13]府中市美術館東京都府中市の市立美術館)の「へそまがり日本美術 ?禅画からヘタウマまで?」(開催期間:3月16日?5月12日)がそれである[11]。この企画展は、中世日本の禅画水墨画)から現代のヘタウマ漫画まで展望することを標榜したもので[12]、職業絵師や絵師でない歴史的人物が描き残した珍妙なる絵の数々を紹介しており、その中には現代感覚でいうところの「ヘタウマ」に該当するであろう作品がいくつか含まれていた[11]とりわけ主催者が注目を促したのは江戸幕府第3代将軍徳川家光が手ずから描いて諸大名に贈ったという『兎図(うさぎず)』(■左の画像参照)や『木兎図(つくず)』[* 1][11]、ゆるく可愛くも得体の知れない絵柄がじわじわと印象に残るものである。歴代徳川将軍の中で最も多くの大名家を改易した警戒すべき主君・家光から“公方様のありがたい御絵”を授かった大名の心中はどのようなものであったか。大事にしまい込まれて綺麗な保存状態で今日に伝わったのは、ある意味、当然のことであったかも知れない。アンリ・ルソー『ムッシュXの肖像(フランス語版)』/モデルはピエール・ロティ。1891-1910年間の作。

また、この企画展はアンリ・ルソーを「西洋絵画における、ヘタウマの元祖」に位置づけている[12](■右の画像参照)。正規の美術教育も先達の指導も受けなかったルソーの作風は、技術の拙さと卓越した芸術的センスが奇妙な化学反応を起こしたような独特の魅力があり、ほとんど全ての人々から「絵具箱をもらった6歳児が筆の代わりに指で描いたような絵だ」などと嘲笑されながら、ポール・ゴーギャンを始めとする同時代の先進的画家をして「どうにも素人に過ぎる絵だが、我々には描けない何かがある」「絵の将来像がここにある。これこそが絵である」などといった旨の高い評価を得てもいる[14]。一つ例を挙げるなら、陰影の付け方は写実に程遠く酷く平面的で舞台美術に見られる書割(かきわり)のような趣があるが[14]、このような画法一つ取っても、技術を基礎から押さえてプロになった同時代の画家達からは生まれ得ない表現であった[14]。皮肉なことにルソー自身は画家として正統な評価を望んでいたが、生涯に亘って主流とは縁が無く、当時のほとんどの一般人と画家にとって「下手すぎて笑える画家」という惨憺たる低評価のままで終わった。


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