ヘイゼルの悲劇
事件現場となったヘイゼル・スタジアムは改修工事が行われボードゥアン国王競技場と改称した。
場所 ベルギー ・ブリュッセル
日付1985年5月29日
原因フーリガン問題、スタジアムの老朽化、警備態勢の不備
攻撃手段暴力
死亡者39人
負傷者400人以上
犯人リヴァプールFCサポーター
対処リヴァプールFCは6年間、それ以外のイングランドのクラブは5年間のUEFA主催の国際試合出場禁止。暴動に関与した14人が過失致死傷罪により懲役3年。
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ヘイゼルの悲劇 [注 1] (ヘイゼルのひげき、英語: Heysel Stadium Disaster)は、1985年5月29日にベルギー・ブリュッセルにあるヘイゼル・スタジアム[注 2] で行われたUEFAチャンピオンズカップ 1984-85決勝のリヴァプールFC(イングランド)対ユヴェントスFC(イタリア)の試合前に、サポーター同士の衝突がきっかけとなり発生した群集事故である[1]。
試合開始1時間前の午後7時ごろ(現地時間)からトラブルが発生し、リヴァプールサポーターの一部がユヴェントスサポーターの観戦エリアを襲撃した[13]。この襲撃を逃れようとした多くのサポーターが壁際に押し寄せたため将棋倒しとなり、39人が死亡、数百人が負傷した[13]。この事故の影響により、欧州サッカー連盟 (UEFA) はイングランドのサッカークラブに対し、UEFA主催の国際試合への無期限の出場禁止処分を下した[13]。最終的にイングランドのサッカークラブに対して5年間、リヴァプールに対して10年間の出場禁止処分となり、イングランド勢の処分が明けた1年後の1991年にリヴァプールの国際試合への復帰が認められた[13]。
背景詳細は「フーリガン」および「en:Football hooliganism
サッカースタジアムでの観客による暴動は19世紀以来の問題であり[14]、1909年のスコティッシュカップ決勝では延長戦を行わなかったことを不服としたサポーターがスタジアムを破壊し、100人以上が負傷した事故[15]、1964年にはペルーでピッチに雪崩れ込んだサポーターに対して警官隊が催涙ガスを使用し、パニック状態になった観客が出口に殺到し318人が死亡した事故(エスタディオ・ナシオナルの悲劇)などが記録として残されている[16]。また1972年5月にスペインのバルセロナで行われたUEFAカップウィナーズカップ決勝・グラスゴー・レンジャーズ対ディナモ・モスクワ戦では、試合中から試合後にかけて泥酔したレンジャーズサポーターと警官隊が衝突を繰り返し、1人が死亡150人が負傷する事件を引き起こし[17][18]、これによりレンジャーズは欧州サッカー連盟 (UEFA) から2年間の国際試合出場禁止処分(後に1年間に軽減)を受けた[18]。この試合は、サッカークラブが暴力的サポーターの逸脱した行為により深刻な処分を受けた初の事例とされている[18]。
イングランド情勢双方の集団が接近して立見席に陣取った場合には本格的な紛争へと発展し、興奮が高まると集団で相手に猛然と突撃し、相手を牽制する威嚇行為に及ぶ。両者が最接近する地点ではある程度の突きや蹴りの応酬が行われるのが常であり、こうした対決は均衡が回復するまで続けられる。ただし、新聞メディアにより「凄まじい暴動」と報じられる割には軽傷で済むことが常である。デズモンド・モリス[19]
イングランドのサポーターによる暴動は1960年代頃から頻発するようになり[14][20]、サポーター同士による抗争だけでなく、遠征先の相手チームのスタジアムや近隣の商店街、移動に使用する鉄道やバスなどの公共の交通機関への破壊活動などを通じて社会問題として認識されるようになった[20][21]。暴力行為に及ぶサポーターの多くは若い失業者であった[22]。この背景には、労働者階級の若者達がテレビ放送の影響もあり、自分達の応援するクラブや選手達を崇拝の対象と見做し、日常の捌け口としてスタジアムでの暴力行為に及んでいたこと[17]、テレビ放送により映し出される暴力的なサポーターの姿に感化され、他のサポーター達も同じように振舞うようになったことなどが挙げられる[23][24]。
これらの対策として、スタジアムでは大量の警官が動員され、暴動の首謀者を捕獲するために特別チームが編成された[20]。また他の都市から遠征してくるサポーター集団に対しては、スタジアム外でトラブルを派生させないように交通機関からスタジアムまでを警官により護送が行われ[20]、スタジアム内では観客同士のトラブル派生をさけるために別々の区画に隔離がされた[20][25]。
その一方でサポーターによる暴動は、鉄道や飛行機を使用した低料金での旅行が可能になり、行動範囲が広がった[16][23]ことから、遠征先となるヨーロッパ各国のスタジアム周辺でも行われ、1974年5月29日にオランダのロッテルダムで行われたUEFAカップ決勝第2戦・フェイエノールト対トッテナム・ホットスパー戦[26][27]や、1975年5月28日にフランスのパリで行われたUEFAチャンピオンズカップ決勝・バイエルン・ミュンヘン対リーズ・ユナイテッド戦[26][27]、1980年6月12日にイタリアのトリノで行われたUEFA欧州選手権1980グループリーグ、イングランド対ベルギー戦[26]などで暴動を引き起こした[14]。