プロ野球再編問題_(1949年)
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1949年のプロ野球再編問題(プロやきゅうさいへんもんだい)とは、日本プロ野球組織「日本野球連盟」(以下「連盟」。現在の社会人野球の統括団体とは関係ない)の球団数拡大を巡って既存球団が対立し、セントラル太平洋の2リーグ分裂に至った1949年の終わりから1950年の始めにかけての一連の動きを指す。
背景・当時のプロ野球.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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疑問点:「敗戦下の日本国民に娯楽を与える」という3S政策←この文の信憑性

第二次世界大戦が終わった1945年9月の時点で、プロ野球は直ちに活動を再開し、同1945年11月23日明治神宮野球場で東西対抗戦が行われたのを皮切りに桐生新川球場で1試合・西宮球場で2試合が行われた[1]。神宮での第1戦と西宮での第4戦には5000人を超える観衆が集まった。1946年からは8球団で本格的なシーズンが再開され、プロ野球は占領政策の後押しも有り急激に成長を遂げる。

戦前まで、野球は「学生の趣味」であるとの考えが一般的であり[2]、プロ野球選手とは「子供の趣味を大人になっても続け生計の手段としてしまう人々」として、一般の社会人と比べて侮蔑される存在であった。

しかし、GHQが「敗戦下の日本国民に娯楽を与える」という3S政策の下で、例えば、それまでは明治天皇を祀った明治神宮外苑の一角にあるがため特に神聖視されていた明治神宮野球場にて、上記のように蔑視されていたプロ野球の興行での使用を早々に許可した[注 1]など状況は一変する。

1947年ニックネーム導入、1948年フランチャイズ制仮執行と、アメリカ合衆国・メジャーリーグベースボールに倣った活動も行われた。間接的にも紙が不足していたため占領軍当局からの用紙割り当ての制限を受けていた新聞各社が刊行許可を得て用紙の割り当てを増やすためにスポーツ新聞が相次いで創刊され[3]、戦前はほとんどなかったラジオ中継も、GHQの民間情報教育局から放送の空き時間をなくすように指示されたNHKが空き時間を埋める題材としてプロ野球を用いる[4]など大きな影響をもたらした。

「赤バット」の川上哲治、「青バット」の大下弘、「物干し竿」の藤村富美男ら人気選手の出現もあり、蔑視されていた戦前とは一転して、戦後の苦難にあえぐ国民の数少ない娯楽として、人気が急上昇したのである。

この結果、一大娯楽産業として成長したプロ野球は、1948年には半分以上の球団に黒字化の見通しがあり、この成長が続けば翌年には全球団黒字だと関係者から声が上がる[5]など、稼げる事業となった。戦前から苦労してきた関係者からすれば、誰も顧みてくれることのなかった頃から重ねてきた苦労が実りプロ野球はようやく黒字化してきた、野球は企業としても軌道に乗る[5]という想いがあった。他方、プロ野球の成長はそこに参加していない企業からの注目も大きく集めることとなり、参入を希望する企業が続出していたのである。
発端・正力構想

1949年2月4日から翌2月5日にかけて連盟使用者評議会が開かれ[6]、機構改革案の1つとして連盟コミッショナー職の新設案が決定した。初代コミッショナーには元読売新聞社長であり、読売ジャイアンツ(以下巨人)オーナーであった正力松太郎が連盟名誉総裁も兼ねて就任したが、民政局法務府特別審査局から、正力は公職追放中の身であり公的な職務につく事をGHQから禁止されているとの警告が有り、5月13日にはコミッショナー職は辞した。

辞任直前の4月15日[7]、名誉総裁とはいえ連盟に実質的な影響力をもつ正力が連盟総裁就任の記者会見で、「既存の6球団を8球団にする(注 明らかになった時点では既に8球団[注 2])、そこで地固めをして更に10球団、それでも安定すれば12球団とし、2リーグへ[8]」という俗に「正力構想」と呼ばれるアメリカ合衆国メジャーリーグベースボールに倣った2リーグ制の導入構想を意見として表明した。このとき同時にアメリカからのチームの招待、東京における専用球場を1球場建設するという3つの意見が示されている[7]

正力は、2リーグのうち一方のリーグの柱を読売新聞社を親会社として持つ巨人とし、もう一方のリーグの柱として当時、プロ野球の急成長とともに拡大を続けていた読売新聞社をライバル視し、それに倣ってプロ野球への参入をもくろんでいた毎日新聞社に白羽の矢を立てた。毎日新聞社は7月には非公式に加盟を打診し[9]9月21日、毎日オリオンズ[注 3](以下毎日)の加盟を連盟に申請する。

1949年9月22日付の毎日新聞には「本社ではかねて内外各方面からの熱望もあって職業野球チームの編成を計画、関係方面との折衝にあたっていたが、二十一日、正式に日本野球へ加入を申し入れた」とある[10]
既存球団の思惑

正力構想が明らかになる以前、既存球団からすれば、ここまで育ててようやく軌道に乗りそうなプロ野球に、事業になるとわかった今更になってから新規に入ってくる事は、到底受け入れられるものではなかった。又、球団増加によって観客のバラつきが起きてしまってはプロ野球の人気低下を招きかねないと反対する声が大きく、1948年には大映永田雅一の加入申し込みを跳ね除ける[11]など新規加入は認められてこなかった(永田は既存球団に投資することで無理矢理入り込んだ)。

正力構想が明らかになると、特に読売新聞からすれば、毎日新聞のプロ野球参入は、戦前から十数年にわたって犠牲を払いながら育て、ようやく有効な販促手段となったプロ野球に、ライバル紙が割り込んでくるわけであり、到底認められることではなく猛反対した[12]。この読売の反対は、正力に反旗を翻した格好になるが、当時の読売は、労働争議の影響で本社から退陣させられ、公職追放された正力に代わり副社長の安田庄司を中心とした「反正力」派の人間が実権を握っており、正力の影響力を排除するために、正力構想には同意できないという思惑もあった[13]。また、中日ドラゴンズ[注 4](以下中日)の親会社である中部日本新聞社も読売と同様の理由で毎日の加盟に反対し、大陽ロビンス[注 5](以下大陽)は毎日への球団売却という話が出たことで心証を悪くしていたため、読売・中日と同調した[14]


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