プロレス中継
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プロレス中継(プロレスちゅうけい)は、プロレスの試合の模様をテレビなどで放送する番組の俗称。なお「プロレス中継」の呼称は主に日本国内の団体で使用されており、アメリカ合衆国の団体については「中継」ではなく「番組」と呼ぶのが一般的である(テレビ番組であるから日本でも当然呼称する)。以下、この項目では日本の「中継」とともにアメリカの「番組」なども合わせて述べる。
日本
日本における歴史
日本プロレス - 男子3団体、女子1団体時代

1953年力道山が日本で最初の本格的プロレス団体・日本プロレス協会を立ち上げ。新しいプロスポーツとして注目されたプロレスは、早速その旗揚げ戦からテレビ中継が行われた。その端緒となったのは、日本テレビおよびNHKだが、やがて後発の民放・ラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)、大阪テレビ放送(現:ABCテレビ)も中継に参入した。ただし当初は、主要な試合を不定期に中継するだけだった(特に民放の場合、提供スポンサーも流動的だった)。なお旗揚げして間もない頃は、NHK・民放とも、ラジオでの中継も盛んに行われた。また、NHK大阪放送局の実験放送期間中の1954年2月6日に全日本プロレス協会主催の「マナスル登山隊後援・日米対抗試合」が大阪府立体育館からテレビ中継された。本放送でないことを考えなければ、これが日本最初のテレビによるプロレス中継である[1](詳細はこちら)。

1957年、日本テレビが毎週土曜日の夕方に、プロレスの普及を図る目的の定期番組「プロレス・ファイトメン・アワー」を開始(この番組に途中から、後年の提供スポンサーとなる三菱電機が付く)。これを発展させた形で1958年8月29日から、日本テレビは金曜20時枠の「三菱ダイヤモンド・アワー」(三菱電機単独提供)にて、日本プロレスの試合を独占中継する定期番組を開始した(当初はテレビ映画「ディズニーランド」との週代わり放送であった)。また大阪テレビ放送では1957年に「OTVスポーツファンシート・プロレスアワー」を開始。テレビスタジオ内にリングを設け、力道山の解説付きによる定期中継番組を開始した。

1968年には、吉原功ヒロ・マツダと手を組んで旗揚げした団体「国際プロレス」の中継を1月3日からTBSが「TWWAプロレス中継」のタイトルでスタートさせる。また日本テレビが放送していた「三菱ダイヤモンド・アワー」内の日本プロレス中継も、2月23日から毎週金曜20時枠放送へ移行した。

1969年7月2日、当時のNETテレビ(現:テレビ朝日)がプロレス番組に参入し、「ワールドプロレスリング」を水曜21時枠にて(後に月曜20時枠に移動)開始する。しかし、メインイベンターのジャイアント馬場、ナンバー3の坂口征二両選手の試合、および主だったタイトルマッチなどは日本テレビが独占中継としていたため、同団体ナンバー2の地位にいたアントニオ猪木関連の試合を放送するに留まった(即ち、メインイベントの中継は殆ど不可能だったということになる)。だが、1971年に猪木が同団体を解雇(日プロは協会として成り立っていたため、公式には除名である)される。猪木という主役を失ったNETテレビは、日プロに馬場の試合の中継権を要求し、日プロ側は快諾した。だが日本テレビ側には了承を取っておらず、1972年4月3日、NETテレビが日本テレビとの協定を破り、馬場の試合を中継したため日本テレビ関係者が激怒。1972年5月12日放送分を以って日本テレビ、日本プロレス中継は打ち切りとなった。これにより、日本プロレス中継はNETテレビが独占する事になり、1972年7月28日には金曜20時枠に進出し「NET日本プロレスリング中継」をスタートさせ、9月まで月曜・金曜の並行放送となった。

1972年10月、日本テレビが後ろ盾となって馬場をトップレスラーとする全日本プロレスが旗揚げされると、同時に日本テレビも全日本プロレス中継(以下、全日中継)を、1972年10月7日から土曜20時枠でスタートさせた。一方の猪木も1972年新日本プロレスを旗揚げしていたものの、こちらはテレビ中継が無いこともあり人材難・資金難で、倒産も時間の問題とされた。新日本側がかつて猪木の試合を中継していたNETテレビに放送再開を求めたところ、既に崩壊寸前であった日プロに残留していた坂口の加入が絶対条件という回答があり、新日本は坂口に「トップの猪木と対等の条件」を出して引き抜く(だが、新日本入団後は対等ではなく、常に猪木の黒子に回らざるを得なかった)。このことで1973年4月6日より、新日本プロレスを中継する新番組としての「ワールドプロレスリング」(以下、WPW)が金曜20時枠でスタートする。引き替えに日本プロレス中継は1973年3月30日で終了し、日本プロレスも同年4月20日を以って崩壊した。

女子プロレスは、1968年に日本女子プロレス協会の中継「女子プロレス中継 世界選手権シリーズ」(東京12チャンネル=現:テレビ東京)が定期番組として登場し、高視聴率を挙げたが1年余りで終了(その後団体も活動を休止)。その後実質的に女子プロレス団体は、全日本女子プロレス1団体のみとなったが、同団体の定期番組として「全日本女子プロレス中継」がフジテレビで放送された。解説として後援紙デイリースポーツの記者が就き、実況は元日本テレビアナウンサーの志生野温夫2002年の番組終了まで務めた(因みに「全日本女子プロレス中継」を製作していたのは、スポーツではなく、芸能・バラエティ番組を担当する部署だった)。

一方、東京12チャンネルは同じく1968年に「プロレスアワー」のタイトルで海外プロレスの中継を開始。当時の同局としては人気番組とも言える10%近い視聴率を出し、15%超えも記録した。

国際プロは1968年の中継開始以降、TBSが中継を請け負っていた(一時は団体名も「TBSプロレス」と名乗った)。サンダー杉山ストロング小林がエースとして団体を支えてきたが、ゴールデン撤退・30分縮小や、小林がフリーとなり新日本に参戦してしまい経営が厳しくなると、1974年3月30日を以って諸事情で打ち切りとなった。これを受け国際プロレス社長の吉原功は東京12チャンネルに中継再開を嘆願し、これが通じて1974年9月23日より東京12チャンネル(現:テレビ東京)で「プロレスアワー」を国際プロレス中継に変更する形で月曜20時に「国際プロレスアワー」として中継を開始する。この中継からはラッシャー木村マイティ井上らがブレイクするものの、東京12チャンネルは当時ネット局を持っておらず、関東圏以外では放送が難しかったことや、これに伴い中京・関西圏では愛知・大阪の2府県が未ネットとなったこと、当初の中継対象会場が関東圏のみであったことがあり、全国的な人気を得るまでにはいかなかった(そのため、全日、新日両団体に参戦することもあった)。

このころ試合が過激になるが余りに中継における問題点も指摘されたりした。特に1962年に行われたフレッド・ブラッシーが絡んだ試合がカラーテレビで中継された時、その流血シーンを見たとされる老人らがショック死する事故があり、カラー放送を一旦中止したほか、国際プロレスで日本で初めて試みられた「金網デスマッチ」でも流血シーンが放送されたため、当時放映したTBSがその模様を一切放映しなかったこともあった。その後国際プロの中継を引き継いだ東京12chでは金網デスマッチこそ放送されたものの、凶器攻撃があった場合は死亡事故再発をなくすためということで「凄惨な場面ですので、放送をご容赦くださいませ」という字幕を出し、応援席を写したというケースもあった。
1980年代

1970年代より新日本は猪木の異種格闘技戦などで絶大な人気を獲得し、1980年代前半にはタイガーマスク佐山聡)の登場などで全盛期を迎えた。金曜20時に定着していたWPWは「伝説の金曜8時」とも言われ、視聴率が20%を超えることも珍しくなかった。この全盛期には、テレビ朝日アナウンサーの古舘伊知郎の「マシンガン実況」とも呼ばれる、独特のフレーズをマシンガンの如く繰り出す過激な実況が絶大な人気を得たことも大きく関係している。当時は生放送であり、番組が終盤の時間帯になると、不可解な裁定や脈絡のない反則で無理に試合を終わらせることも少なくなかった。

一方、全日中継はジャンボ鶴田という新たなエースが誕生しテリー・ファンクアブドーラ・ザ・ブッチャーなどの豪華外国人を招聘したものの、人気の新日本と比べると地味な感じが否めなかった。1979年4月には土曜夕方枠に移行となり、WPWより一足先にゴールデンタイムから陥落してしまう。しかし、1985年長州力率いるジャパンプロレスが参戦すると、その話題性から人気が回復し、1985年10月に再び土曜19時のゴールデン枠に返り咲いた。また、この時代は、日本テレビと全日本との結びつきが最も強い時期でもあり、全日本の社長ポストは日本テレビの役員が出向の形で就いていた。しかし1988年4月には日曜22時30分からの放送となり、再度ゴールデンタイムから陥落してしまった。

国際プロは、1977年から関東圏以外で行われる試合の中継も本格的に開始し、1980年2月には東京12チャンネル主導で大木金太郎を獲得し、「国際プロレスアワー」も1980年10月4日から土曜20時へ移動したものの視聴率回復にはつながらず、1981年3月28日にレギュラー放送が終了して特番枠放送へ移行し、団体も同年8月9日に活動を停止。同年9月24日に特番枠放送も終了し、同年9月30日に国際プロ自体が崩壊し、所属選手は全日本と新日本の両団体に移籍することになった。

1984年、新日本を離脱した前田日明、佐山聡らが従来のプロレスよりも格闘色を強くした新プロレス路線を目指してUWFを旗揚げする。


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