プロレスアワー
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『プロレスアワー』は、東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送されたプロレス中継番組である。1968年11月から中断期を挟んだ1972年9月まではWWWFなど海外の映像や女子プロレス団体、さらには最初期の新日本プロレスの試合などが放送され、1974年9月23日から1981年3月28日までは国際プロレスの試合を『ファイティングアワー』→『国際プロレスアワー』のタイトルで中継していた。目次

1 多団体放送時代

1.1 初の新日本プロレス中継


2 国際プロレス中継時代

2.1 前史

2.2 単発放送で再開

2.3 レギュラー放送開始 - 月曜20時台時代

2.4 デスマッチ中継

2.5 土曜20時台時代 - レギュラー放送終了

2.6 特番枠へ再移行 - 国際プロレス中継終了

2.7 国際プロレス中継終了後


3 実況スタッフ

3.1 解説

3.1.1 プロレスアワー

3.1.2 国際プロレスアワー


3.2 実況


4 制作スタッフ

5 ネット局

6 テーマ曲

6.1 オープニングテーマ

6.2 その他


7 DVD・カセットテープ

8 備考

9 参考文献

10 脚注

11 関連項目

多団体放送時代

プロレスアワー
ジャンル
プロレス実況中継番組
オープニング「パープルページェントマーチ」
製作
制作東京12チャンネル

放送
放送国・地域 日本
放送分56分

プロレスアワー(第1期)
1968年11月から1969年3月まで
放送期間1968年11月30日 - 1969年3月
放送時間土曜日20:00 - 20:56
放送枠テレビ東京プロレス番組枠
放送分56分

プロレスアワー(第1期)
1969年4月から1970年3月まで
放送期間1969年4月 - 1970年3月
放送時間月曜日20:00 - 20:56
放送枠テレビ東京プロレス番組枠

プロレスアワー(第1期)
1970年4月から1970年9月まで
放送期間1970年4月 - 1970年9月
放送時間日曜日19:00 - 19:56
放送枠テレビ東京プロレス番組枠
放送分56分

プロレスアワー(第1期)
1970年10月から1971年9月まで
放送期間1970年10月 - 1971年6月
放送時間火曜日20:00 - 20:56
放送枠テレビ東京プロレス番組枠
放送分56分

プロレスアワー(第2期)
1972年4月から1972年9月まで
放送期間1972年4月8日 - 1972年9月
放送時間土曜日20:00 - 20:56
放送枠テレビ東京プロレス番組枠
放送分56分
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海外の過去の試合映像(白黒)に日本語の実況・解説を付け加えたプロレス番組として1968年11月30日放送開始。解説は田鶴浜弘が担当した。初回放送はルー・テーズVSアントニオ・ロッカNWA世界ヘビー級王座戦とザ・デストロイヤーの素顔時代の試合が放送された。未来日だったバディ・ロジャースホイッパー・ビリー・ワトソン、当時すでに故人となっていたゴージャス・ジョージなどの試合も放送され[1]、視聴率では最高で15%を記録するなど人気番組となった。

1969年からは土曜17:00枠においても初回からの再放送を開始。1970年8月には「WWWF決戦シリーズ」として、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたWWWFの定期戦(ブルーノ・サンマルチノイワン・コロフペドロ・モラレスザ・モンゴルズなどが出場)を、フィルムを取り寄せた上でカラー放送した[2]。WWWF定期戦の放送の仲介役はグレート東郷が務めた[3]

日本女子プロレス中継であった『女子プロレス中継 世界選手権シリーズ』終了後の1970年以降は女子の試合も扱うようになった。プロレスアワーとしては1971年6月に一時休止となり、その後は『びっくりスポーツ』枠での単発放送を経て、1972年4月に再開し半年間放送された。
初の新日本プロレス中継

1972年3月に旗揚げした新日本プロレスの最初の中継は東京12チャンネルが放送した。『プロレスアワー』終了後に1972年9月シリーズである「ニュー・ゴールデンシリーズ」を単発放送として2回放送し、1972年10月4日に蔵前国技館で行われたアントニオ猪木VSカール・ゴッチ戦を当日の22時30分から、10月10日に大阪府立体育館で行われた猪木VSゴッチ戦を11月6日の20時からそれぞれ1時間枠で録画中継したと同時に、猪木の試合中継が単発放送ながらも1971年12月の日本プロレス除名以来10か月ぶりに復活した。その際の実況は後に『国際プロレスアワー』や『世界のプロレス』を担当した杉浦滋男、解説は後に『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)の解説を担当した桜井康雄がそれぞれ務めた。視聴率は蔵前大会が8.8%、大阪大会が11.9%であった[4]

藤波辰爾は東京12チャンネルによる単発中継について「テレビの力、メディアの力っていうのは大きい」「リング上にある感情、人間臭さ、泥臭さというものは日本人の心に突き刺さるものであり、それを伝える意味でも東京12チャンネルによる中継開始は大きかった」と懐述している[5]

当時日本プロレス中継である『NET日本プロレスリング中継』を放送していたNETは、東京12チャンネルにおける単発放送前から日本プロレス幹部並びに日本プロレス選手会長であった大木金太郎に極秘裏で、猪木と当時日本プロレス所属だった坂口征二との間で新日本のレギュラー中継に関する協議を開始しており[6]、東京12チャンネルにおける単発放送後の新日本の試合中継は、1973年4月6日から日本プロレスの中継番組であった『NET日本プロレス中継』を打ち切って『ワールドプロレスリング』に再改題した上でレギュラー放送として開始している。
国際プロレス中継時代

ファイティングアワー

国際プロレスアワー
ジャンルプロレス実況中継番組
オープニング
こちらを参照
製作
制作東京12チャンネル

放送
音声形式モノラル放送
放送国・地域 日本


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