プロフェッサー・タナカ
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プロフェッサー・タナカ
1973年
プロフィール
リングネームプロフェッサー・タナカ
トール・タナカ
タロー・タナカ
本名チャールズ・カラニ・ジュニア
(チャーリー・カラニ)
ニックネーム東洋の悪魔
身長180cm - 183cm
体重116kg - 124kg
誕生日1930年1月6日
死亡日 (2000-08-22) 2000年8月22日(70歳没)
出身地 アメリカ合衆国
ハワイ州
ホノルル郡ホノルル
スポーツ歴アメリカンフットボール
柔術
デビュー1958年[1]
引退1986年[1]
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プロフェッサー・タナカ(Professor Tanaka、本名:Charles Kalani, Jr.、1930年1月6日 - 2000年8月22日)は、アメリカ合衆国プロレスラーハワイ州ホノルル出身。現役引退後は、アクション映画悪役俳優に転じた。

グレート東郷ハロルド坂田キンジ渋谷などのステレオタイプな日系悪役レスラーのスタイルを踏襲し、「東洋の悪魔」としてアメリカマット界で活躍したが、出自は不明な点が多い。トール・タナカ(Toru Tanaka)あるいはタロー・タナカ(Taro Tanaka)を名乗り、広島県出身の両親を持つ日系人を自称していたが、ギミックの可能性が高く、実際はハワイ生まれのフィリピン系とされている[2]。その他、ミンダナオ島出身説やタイの山岳民族であるとの説もあった[2]
来歴

「金剛山」を名乗ったハワイの日系レスラーと同一人物という説もあったが真偽は不明[2]。少年期から柔道空手などの格闘技を身につけ[2]柔術ブラックベルトも取得[3]アメリカンフットボールでも活動し、1955年アメリカ陸軍に入隊[3]。除隊後の1958年、チャーリー・カラニ(Charlie Kalani)の名義で地元のハワイにてデビュー[1]1960年代に入りアメリカ合衆国本土サンフランシスコ地区に進出、1964年にはザ・シークベアキャット・ライトマーク・ルーインホセ・ロザリオらと対戦した[4]

その後、プロフェッサー・トール・タナカ(Prof. Toru Tanaka)をリングネームに、1966年オーストラリアジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリング)に遠征。6月3日にシドニーにて、ドミニク・デヌーチから豪州版のIWA世界ヘビー級王座を奪取[5]。以降、1968年9月2日にもマリオ・ミラノを破り同王座を獲得[5]、11月にはスカル・マーフィーとのコンビでIWA世界タッグ王座にも戴冠している[6]。同年12月、フィリピン遠征の途中に一度来日し、日本プロレスを表敬訪問したが試合は行わなかった[2]

その間、アメリカでは1967年よりWWWFに参戦。ブルーノ・サンマルチノと抗争を繰り広げ、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンをはじめ東部各地でサンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した[7][8]。以降もWWWFを主戦場に、ボボ・ブラジルエドワード・カーペンティアスパイロス・アリオンビクター・リベラなどの人気選手と対戦[9][10]を相手の目にすり込む反則攻撃で観客の憎悪を煽るなど、卑怯者の日系人ヒールとしてブレイクを果たした。1969年には純正の日系アメリカ人であるミツ荒川とライジング・サンズ(Rising Suns)なるタッグチームを結成、6月にWWWFインターナショナル・タッグ王座の初代王者チームに認定されている[11]

1970年下期からはNWAテキサス州ダラス地区で活動、12月18日にフリッツ・フォン・エリックからNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取[12]。戴冠中の1971年1月5日と翌6日にはドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している[13]。以降もダラスではエリックやジョニー・バレンタインワフー・マクダニエルミル・マスカラスなどの強豪を相手にアメリカン王座を争った[14][15]1972年


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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