プロビンスタウン
町
空から見た岬と町域
愛称: ピータウン "P-town"
マサチューセッツ州におけるバーンスタブル郡とプロビンスタウンの位置
アメリカ国際調査基本地図
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度03分30秒 西経70度10分45秒 / 北緯42.05833度 西経70.17917度 / 42.05833; -70.17917
プロビンスタウン (Provincetown [?pr?v?ns?ta?n]) は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州バーンスタブル郡のケープコッドの先端にあるニュー・イングランド・タウン。年間を通じた人口は3千人以下の小さな海岸リゾート街であるが、夏季には6万人もの人々が集まる[1]。「ピー・タウン (P-town )」と略して呼ばれる[2]この町は、海岸、港と漁業、リゾートと芸術の町として知られ、多くの観光客が訪れている。自由な雰囲気からゲイ・タウンとしてLGBTQコミュニティのバケーションの地としてもその名が通っている。 その歴史は古く、ノーセット族
歴史
1602年5月15日、ヨーロッパからパーソロミュー・ゴスノルドが上陸し、最初は島だと思っていたことからこの地を「ショール・ホープ」(ホープの浅瀬)と呼んだ。大量のタラ(英名、コッド)が獲れたことから、同日遅くにはこの地を「ケープ・コッド」(タラの岬)と改名した[3]。当時は現在のプロビンスタウンのみをケープ・コッドと呼んだが、間もなくケープ・コッドが指す範囲は現在の地域に広がる。
1620年11月9日にピルグリム・ファーザーズ(清教徒)はメイフラワー号に乗ってイギリスからバージニア植民地に向かう途中、ケープ・コッドを見つけた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}冬の強い海風に対抗して南に向かおうとするが失敗し[疑問点 – ノート]、2日後には現在のプロビンスタウン港に戻り、錨を下した。こうしてこの地でメイフラワー誓約が作成および署名され、植民および自治区設立を決意し、東岸から上陸した[4]。
清教徒は当初こそ湾の反対側のプリマスに植民しようと考えていたのだが、ケープ・コッドは椀状に深く、魚がよく採れ、この海岸が最適と考え直した[5]。1654年、プリマス植民地の知事はノーセット族酋長から真鍮のやかん2個、コート6着、鍬12本、斧12本、ナイフ12丁、箱1箱でこの地を購入した[6]。
その土地は現在のプロビンスタウンとトゥルーロの町界に近いイースト・ハーバー(旧ピルグリム・レイク)からロング・ポイントまで広がり、プリマス植民地が権利を有したため、漁業権がない漁師から出漁税を集金し、学校設立など植民地内の様々な計画に使用された。1678年、マサチューセッツ湾植民地の漁師なども料金を支払えば、漁場を使用できるようになった[7]。
1692年、新たな勅許によりプリマス植民地とマサチューセッツ湾植民地が合併しマサチューセッツ湾直轄植民地となった。この時「ケープ・コッド」は正式に「プロビンス・ランズ」と改名された[6]。
1714年、プロビンス・ランズの最初の司法記録されており、トゥルーロの管理下で併合された「ケープ・コッド行政地区(Precinct of Cape Cod )」が決議された[8]。
1727年6月14日、入植から100年以上が経ち、ケープ・コッド行政地区はタウンシップ制となった。これにより住民たちは「ヘリングタウン(Herringtown )」(ニシンの町)への改名を望んだが、マサチューセッツ地方議会はこれを退け「プロビンスタウン」を選んだ[9]。タウンシップ制となったことで住民たちは所有地の権利放棄証書を受け取らされると地権を失い使用権のみに甘んじた[10]。
18世紀を通じて、プロビンスタウンの人口は少ないままであった。海岸での絵画教室(1940年)ピルグリム・モニュメント。シエーナ(イタリア)のマンジャの塔がモデル。(ウィラード・T・シアーズ設計、建築は1907年-1910年)
ケープ・コッドの他の地域同様、プロビンスタウンはアメリカ合衆国の独立の影響を受けた。イギリス軍は漁業および船舶関連の場所の多くを閉鎖し、町は縮小していった。1778年、奇遇にもこのプロビンスタウンの大西洋沖ピークド・ヒル・バー砂洲でイギリス軍艦HMSサマーセット号が難破した。
合衆国の独立後、漁業や捕鯨基地として急速に栄えた[7]。アゾレス諸島から来たポルトガル人の船員が多く住み着き、アメリカ船籍の船舶で職を得てプロビンスタウンの人口は急増した[11]。