Prosper Merimee
(プロスペル・メリメ)
誕生 (1803-09-28) 1803年9月28日
フランス共和国・パリ
死没 (1870-09-23) 1870年9月23日(66歳没)
フランス共和国・カンヌ
職業作家、歴史家、考古学者
国籍 フランス
ジャンル短編小説、歴史小説
代表作『カルメン』
『マテオ・ファルコーネ』
『コロンバ』
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プロスペル・メリメ(Prosper Merimee, 1803年9月28日 - 1870年9月23日)は、フランスの作家、歴史家、考古学者、官吏。小説『カルメン』で知られる。
パリのブルジョワの家庭に生まれた。法学を学んだ後、官吏となり、1834年にフランスの歴史記念物監督官として、多くの歴史的建造物の保護に当たった。ナポレオン3世の側近であり、元老院議員として出世を遂げた。
青年期に年長のスタンダールとも親交を持ち、公務の傍ら、戯曲や歴史書などを書いた。
メリメは神秘主義と歴史と非日常性を愛した。ウォルター・スコットの有名な歴史小説やアレクサンドル・プーシキンの非情さと心理劇の影響を受けていた。メリメの物語はしばしば神秘に満ち、外国を舞台にしており、スペインとロシアが頻繁に発想の源となっていた。彼の小説の一つがオペラ『カルメン』となった。 画家であり文学者であったレオノール・メリメ
生涯
弁護士資格に合格するとすぐに文学に耽るようになるが、それでも公務員となり、1830年にはアルグ伯アントワーヌ・モーリス・アポリネール(1782年 - 1858年)官房の秘書官になり、通商省と海運省を次々と経て、1831年[1]にリュドヴィック・ヴィッテの後任としてフランス歴史記念物監督官に就任。父がここの秘書官に就いていたので、メリメは早期の名声をもたらした文学作品に自由に打ち込むことができた。メリメがヴィオレ=ル=デュックにフランスの建築物の最初の修復作業を求めたのはこの時である。この職はまた南部・東部・中部フランス及びコルシカへの考古学と観光の旅をする機会を与え、メリメはその旅行記(1835年 - 1841年)を出版した。これらの旅は全て鉄道の敷設が完了する前になされた。メリメが著した中編小説の中には、この時の旅行の訪問先を舞台とするものが多く含まれている[1]。メリメは1860年までこの職に留まった。
当時、メリメは地方の「骨董屋」や学識者と数多く文通していた。ポワティエの「東方骨董協会」理事長のシェルジェがその一例で、メリメはこの街で、1850年に解体の危機にあった聖ヨハネの洗礼堂など数多くの遺跡を保全した。ドゥー=セーヴル県(当時は現在よりも広域)で、メリメは県庁所在地ニオールの建築家ピエール=テオフィル・スグレタン(1978-1864)に数多くの教会の修復を依頼した。歴史的建造物の視察官としてこの地域を巡回した折には、メリメは往々にしてラ・ブレシュ広場にあったスグレタン宅に立ち寄り、スケッチの得意だったメリメは飼い猫たちの素描をして気晴らしをしていた。
またメリメは美術史家で蒐集家でもあったジュール・シャンフルーリ
の本『猫たち』(1869年)の挿絵にするために素描を提供した。現地の知識人協会の幹事であったシャルル・アルノーはある時、ナポレオン3世(もしくは皇太子?)の到来に際し、ニオール名物であるアンゼリカ[要曖昧さ回避]の砂糖漬カワカマスを鷲の形にあしらったものをメリメに提供した。
1843年には碑文・文芸アカデミーの、翌1844年にはシャルル・ノディエの跡を継いでアカデミー・フランセーズの会員に選出された。
友人リブリ伯(官位を悪用し稀覯書を窃盗した)の肩を持ったために、メリメは禁錮2週間と1000フランの罰金の判決を受け、1852年7月4日にコンシェルジュリー(パリ裁判所付属牢獄)に収監されている。
メリメは1830年にスペインで出会ったモンティホ伯爵夫人と交遊があった。メリメは1850年5月25日に彼女に「もっと大きなカンバスから切り取られたものと思われるもので、私がこれを見せた知り合いは皆真作だと認めているベラスケス作の40×55cmの女性の肖像画による」クロッキーを彼女に送っている。
伯爵夫人の娘エウヘニア(ウジェニー)が皇后となると、第二帝政政府はその年のうちにメリメを元老院議員とし、レジオンドヌール3等と2等を立て続けに授与した。
シャンフルーリの弟子で、ドガによる肖像画が残っている小説家・美術評論家のルイ・エドモン・デュランティはメリメの私生児であったようだ。
メリメはまだ亡くなっていなかったにもかかわらず、一度死去が大きな見出しで伝えられ、『フィガロ』が訂正記事を出す羽目になった。1870年普仏戦争最中の9月に、滞在先の南仏カンヌで没し、現地で埋葬された。1871年のパリ・コミューンの際に、リール通り52番地にあった自宅の火災によってメリメの蔵書や草稿は失われた。 文学生活においては、40年間の間、考古学と歴史と、それから特に小説を続けてきた人物としての栄誉がメリメを訪れた。 実社会と研究の双方に打ち込みながら、メリメは時間のある時に興味に応じて短い書き物を著し、それらは書物として刊行される前から雑誌で好評を博し、デビュー直後には想像上の作者の作とした2つの著者の不明確な著書によって評判となった:Joseph Lestrange名義の『スペインの女優、クララ・ガズル戯曲集』(1825年)と、Hyacinthe Maglanovitch名義の『ラ・グスラ』(1827年)――イリュリアの歌曲と称した選集である。『クララ・ガズル戯曲集』は文学的なまやかしの最も完璧なものの一つで、ロマン主義的な異国情緒の作品を作る人々などを刺激しフランスでのロマン主義革命を加速した。ただし、クララ・ガズルの戯曲は実際の舞台のために作られたものとは思われず、後にメリメがそのうちの一つ『聖体の四輪馬車』を舞台に送れる機会を得た時も成功を収めることはできなかった(1850年)。友人のスタンダールと同じく、メリメも周囲からの冷ややかな視線を避けるために素人作家として振る舞い、著作に打ち込んでいる様子を表に出さなかった[1]。1829年に本名で発表した歴史小説『シャルル九世治世年代記』によって、メリメは文壇から本格的に注目を集める[1]。 メリメはロシア文学に対して強い興味を示し、アレクサンドル・プーシキン、イワン・ツルゲーネフ、ニコライ・ゴーゴリらの作品の翻訳を手がけた[1]。 メリメは『ジャックリーの乱―-封建時代の劇』とそれに続く、1828年に『カルバハル家の人びと』、翌29年に『シャルル九世治世年代記』を匿名で発表している。
文学活動
火災で焼失したパリのメリメ宅
メリメが没したカンヌの家
メリメが残した数多くの猫の素描の1つ
自画像
作品・史伝