プロスト・グランプリ
[Wikipedia|▼Menu]

プロスト
Prost Grand Prixエントリー名プロスト・ゴロワーズ・ブロンズ (1997)
ゴロワーズ・プロスト・プジョー (1998 - 2000)
プロスト・エイサー (2001)

チーム国籍 フランス
チーム本拠地イヴリーヌ県ギュイヤンクール
主なチーム関係者アラン・プロスト(オーナー)
チェーザレ・フィオリオ
ロイック・ビゴワ
ベルナール・デュド
ジョン・バーナード
アラン・ジェンキンス
アンリ・デュラン
主なドライバー オリビエ・パニス
中野信治
ヤルノ・トゥルーリ
ジャン・アレジ
ニック・ハイドフェルド
ガストン・マッツァカーネ
ルチアーノ・ブルティ
ハインツ=ハラルド・フレンツェン
トーマス・エンゲ
以前のチーム名称リジェ
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度1997 - 2001
出走回数83
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズ
タイトル
0
優勝回数0
通算獲得ポイント35
表彰台(3位以内)回数3
ポールポジション0
ファステストラップ0
F1デビュー戦1997年オーストラリアGP
最後のレース2001年日本GP
テンプレートを表示

プロスト・グランプリ(Prost Grand Prix)は、1997年から2001年までF1に参戦したフランスのレーシングチーム。同じフランスのリジェを買収して誕生した。創設者兼オーナーは元F1ドライバーのアラン・プロスト
チーム設立までの動きチーム創設者のアラン・プロスト(画像は2012年)

F1で4度のワールド・チャンピオンを獲得したアラン・プロストは、現役時代より何回か自らのF1チームを立ち上げようと試みていた。

マクラーレン時代の1989年には、盟友でありマクラーレン・MP4シリーズのデザインなどで有名なジョン・バーナードと共同でチーム設立を試みた[1]。この時はルノーエンジンの供給を受け、1stドライバーはアラン・プロスト自身、2ndドライバーは若手のエリック・ベルナールを迎え、オールフレンチ体制で臨むことが内定したと噂されたが、スポンサーを得られずに話がご破算になり、結局アラン・プロストはフェラーリ入りすることになる。

1991年にフェラーリを解雇された直後には、やはりバーナードと組んでイギリスのトムスGBを母体にF1チームを立ち上げようと試みた(そのためバーナードは一時的にトムスに移籍している)。アラン・プロストらはトムスの事実上の親会社であり、当時スポーツカー世界選手権(SWC)参戦用にトヨタ・TS010を開発していたトヨタに、同車に搭載される3.5リッターNA・V10エンジン[2] を供給してもらうことを目論んでいたが、最終的にトヨタにエンジン供給を断られたため計画は頓挫した[3]

そのためアラン・プロストはリジェ買収に方向を転換し、まずはドライバーとして自らリジェのマシンをテストドライブしたが、リジェのマシンではルノーV10エンジンを得てもチャンピオンシップを争うレベルではないと判断したことや、オーナーシップの譲渡について交渉がまとまらなかったこと等の事情もあり、1992年シーズンは1年間の浪人生活を送る決断を下した。

翌1993年、ウィリアムズに加入しワールドチャンピオンに輝き、有終の美を飾る形でを引退し、テレビ解説者を務めながら新たな機会を探った。ホンダ撤退後、最強エンジンメーカーであったルノーのアンバサダーに就任したが、ルノーから支援の確約を得られなかった。その間にも、リジェの所有権は創始者のギ・リジェ→シリル・ド・ルーブル→フラビオ・ブリアトーレ→ブリアトーレとトム・ウォーキンショーの共同、と転々としていた。

1996年、モナコGPでリジェのオリビエ・パニスが優勝したことから、フランス国内でフランスチームの復権を望む機運が高まる。折しも、ウォーキンショーがリジェの完全買収が座礁に乗り上げたことで手放す(その上でアロウズを買収した)。アラン・プロストは各方面から後押しを受けて1994年にF1に参戦して以来、まだ勝利のないプジョーと接近し、リジェ買収に名乗りを上げた。

プジョーとの提携、およびリジェからのチーム名変更は、アラン・プロスト本人よりも政界[4] や出資者の意向だったとされる[5]。名称変更には全チームの承認が必要とされたが、プジョーエンジンを失う可能性があるジョーダンが反対したため、参戦決定までが難航した。1997年2月14日に「プロスト・グランプリ」の発足が正式発表され、あわせて1998年より3年間契約でプジョーエンジンの供給を受けることがアナウンスされた。リジェ時代から続くゴロワーズタバコのほか、アルカテルCanal+ビックなどのフランス系企業ともスポンサー契約が結ばれた。
F1
1997年

チーム発足はシーズン開幕2週間前だったため、参戦初年度はリジェの体制をほぼ引き継いでスタートした。新車JS45無限ホンダエンジンを搭載する。ドライバーはエースドライバーのパニスが残留し、無限の支援を受けてF1デビューする中野信治のラインナップ。この年よりタイヤ供給を開始したブリヂストンと契約した。

前半戦はブリヂストンタイヤユーザーの先鋒となり、エースドライバーのパニスが2度表彰台に上るなど好調な滑り出しをみせた。しかし、パニスがカナダGPで両足を複雑骨折し、戦線離脱してしまった。次のフランスGP(英語版)ではミナルディからヤルノ・トゥルーリを招聘し、中野とトゥルーリのルーキーコンビを組んだ。トゥルーリは3戦目のドイツGPで4位入賞すると、オーストリアGPではスタートからトップを独走。エンジントラブルでリタイアするまで見せ場を作った。続く終盤3戦はトゥルーリに代わり、負傷が癒えたパニスが復帰した。

リジェ時代より無限ホンダエンジンの貢献度は高かったが、チームはシーズン開始前にプジョーと契約しており、1998年からプジョーエンジンが無償供給されることが決まっていた(1997年2月14日発表)[6]。無限の後押しでシートを得た中野はチーム内で完全に冷遇され、テストやセッティングも許されず、パニス復帰に伴い解雇されるとの噂が囁かれた。加えて、プジョーの関係者をファクトリーに招き、無限の了解を得ずにエンジンを見せるなどしたため、「中野を乗せないならその時点でエンジンは供給しない」と無限がコメントを出すなど、両者の関係は緊張したものになった。中野は2度入賞したが、この年限りでチームを離脱する。

チーム成績はパニスの2度の表彰台を含めて入賞8回で、コンストラクターズ順位は変わらず6位だったが、リジェ最終年を大きく上回る21ポイントを獲得。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef