プロイセン国王
Konig von Preusen
過去の君主
プロイセン国王の紋章
ヴィルヘルム2世
1888年6月15日 ?1918年11月18日
初代フリードリヒ1世
最終代ヴィルヘルム2世
称号国王陛下
宮殿ベルリン王宮
任命権者男系長子存続
始まり1701年1月18日
終わり1918年11月18日
現王位請求者ゲオルク・フリードリヒ
称号:国王
敬称陛下
His Imperial Majesty
プロイセン国王(プロイセンこくおう、ドイツ語:Konig von Preusen)は、1701年(正確には1772年)から1918年まで使用されたホーエンツォレルン家のプロイセン君主による世襲の称号である。1871年以降はドイツ皇帝の称号も兼ねた。 プロイセンは元来はドイツ騎士団が統治していたが(ドイツ騎士団国)、16世紀に東部はポーランド国王の封臣という形でホーエンツォレルン家が世俗の公として統治し(プロイセン公国)、西部はポーランド王国(後にポーランド=リトアニア共和国)領として直接に支配することになった(王領プロイセン)。 プロイセン公を兼ねたフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯は大洪水時代の際に宗主をスウェーデンに鞍替えして、1656年のリビアウ条約
概要
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は「兵隊王」の綽名が示すように軍備拡張に努める一方、迫害されたユグノーを国内に積極的に招き入れて産業を発達させ、大北方戦争でポンメルンなどを獲得して領土を拡大させた。
大王フリードリヒ2世はシュレージェン戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争で膨大な犠牲を払いながらもこれに勝利し、豊かなシレジア地方を獲得してブランデンブルク=プロイセンを一気に強国へと発展させた。1772年の第一次ポーランド分割で西プロイセンを獲得したことで、フリードリヒ2世は自らの称号を「プロイセンにおける王」から「プロイセン国王」に変えた。次代のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世は1793年の第2次ポーランド分割でダンツィヒ、トルンを併合してプロイセンを完全に支配下に置いたのみならず、ポーランドの主要部分である大ポーランド
も併合した。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の時代、1806年8月6日に神聖ローマ帝国が崩壊したことで選帝侯位は廃され、ブランデンブルク選帝侯領はプロイセン王国へ統合されるに至った。しかし同年のイエナ・アウエルシュタットの戦いでフランスに大敗を喫し、翌1807年のティルジット条約で大幅に領土を削減された。その後、国内改革に取り組みナポレオン戦争に勝ち抜き、1814年のウィーン会議で領土を大幅に拡大し、ドイツ連邦の一方の盟主となった。1848年の3月革命の際、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にフランクフルト国民議会からドイツ皇帝位が授けられたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこれを拒絶した。
ヴィルヘルム1世は1866年の普墺戦争に勝利して、オーストリア帝国を排除する形でドイツの主導権を握り、一旦は北ドイツ連邦を組織し、続く1870年の普仏戦争で勝利したことで残る南ドイツも掌握してドイツを完全に支配下に置いた。ヴィルヘルム1世はビスマルクからドイツ帝位を薦められ、本人は乗り気ではなかったものの、皇太子フリードリヒ3世の説得により1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿の鏡の間で初代ドイツ皇帝として即位した。
ヴィルヘルム2世は第一次世界大戦での敗北とドイツ革命により1918年11月28日に王位を退いた。ヴィルヘルム2世は当初はドイツ帝位のみを退位し、プロイセン王位は保持しようと努めたが叶わなかった。
なお、ポーランドが西プロイセンを領有していたことから、ポーランド国王も「プロイセン国王」の称号を使用していた。
歴代国王
プロイセンにおける王詳細は「プロイセンの王」を参照
肖像画名前統治期間備考
フリードリヒ1世1701年 - 1713年1701年1月18日に“プロイセンにおける王”として即位。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世1713年 - 1740年フリードリヒ1世の息子。
フリードリヒ2世1740年 - 1772年1772年に西プロイセンを併合を機にプロイセン国王の称号を採用。
プロイセン国王