プレリアール22日法
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革命暦プレリアールの寓意画

プレリアール22日法(: Loi du 22 prairial an II)は、革命期のフランスの法律。共和暦2年(西暦1794年)のプレリアール22日(6月10日)に制定されたことからこう呼ばれる。

一方で、恐怖政治を強化するものであったことから、恐怖政治法(: loi de la Grande Terreur)とも呼ばれ、同様にプレリアールまたはプレリアルは、革命暦の草月であることから、草月法とも呼ばれる。
目次

1 内容

2 恐怖政治の加速

3 関連項目

4 外部リンク

内容

この法律の概要は以下のとおり。

革命裁判所を分割し、各部は3名の裁判官と9名の陪審員で構成するものとする。

革命裁判所は人民の敵を処罰するために設置される。

公共の自由を威力または偽計により破壊しようとする者を人民の敵とする。

君主制の再興を唆した者など、一定の者を人民の敵とみなす。

革命裁判所の管轄する全ての犯罪に対する刑罰は死刑とする。

人民の敵の立証にはあらゆる証拠を利用可能とする。

判決の準則は、祖国の愛に啓蒙された陪審員の良心とする。

全ての市民は、陰謀者または反革命者を逮捕し、司法官の面前で彼らを糾弾することができる。彼らを発見した者は、直ちに告発することを要する。

被告人は公開の法廷で審判され、事前の非公開手続は廃止する。

証言から独立した証拠が得られれば、原則として審理を終える。

全ての手続は公開とし、証言録取書は原則として不要とする。

討議が終了すれば、陪審員は評決を作成し、裁判官が法律の定める方法に従って処罰を宣言する。

検察官は、起訴を取り下げる権限を有しない。

この法律により、公安委員会起訴告発といった司法手続を大きく単純化した。つまり、反革命的行為が発覚すれば、証拠がなくとも、陪審員の心証だけで有罪となりうるようになったのである。そして、有罪となると刑罰は死刑であった。
恐怖政治の加速

法律により、革命裁判所の権限は拡大し、被告人が自ら身を守る能力は制限されることとなった。そして、革命の正義に抵触する者が増え、反革命の名のもとに恐怖政治はさらに加速した。一例として、パリ革命裁判所が死刑を宣告した人数は裁判所設立の1793年4月6日から1794年6月10日までの約1年2ヶ月間に1251名であるのに対して、1794年6月10日からロベスピエール失脚の1794年7月27日までの1ヶ月半の間に1376名である。

この法律の下における、全ての罰則は死刑であった。そのため、政敵を蹴落とすための政争の道具としても利用され、実際に無実の罪でギロチン送りになった者も多かった。

反革命分子の粛清を求めるジョルジュ・クートンによって提案され、マクシミリアン・ロベスピエールの支持を得て可決された。国内叛乱の鎮圧と、恐怖政治の強化を主張する左派および極左派には歓迎されたが、国民公会議員の中道派の多くは、この法の制定に内心では反対であった。粛清が自分の身に降りかかるのを恐れていたのである。この法律の制定から約2ヶ月後、一部の元派遣議員がロベスピエール派の打倒に動くと、中道派がこれに協調。テルミドールのクーデターが勃発し、ロベスピエールが失脚した。新しく権力を手にしたテルミドール派が反動政治を行って、恐怖政治も終わりを迎える。同年8月1日を以って正式にプレリアール22日法は廃止された。
関連項目

フランス革命

恐怖政治

反革命容疑者法

外部リンク

原文 sur Gallica

10 juin 1794, la Grande Terreur, sur herodote.net

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フランス革命


年表

アンシャン・レジーム

原因(英語版)

革命

立憲王政

共和政

総裁政府

統領政府

 主要事件

1788年

屋根瓦の日(英語版)(1788年6月7日)

ヴィジーユ会議(英語版)(1788年7月21日)

1789年
レヴェイヨン事件(1789年4月28日)

全国三部会の召集(英語版)(1789年5月5日)

国民議会(1789年6月17日?7月9日)

球戯場の誓い(1789年6月20日)

憲法制定国民議会(1789年7月9日?1791年9月30日)

バスティーユ襲撃(1789年7月14日)

大恐怖(1789年7月20日?8月5日)

人権宣言(1789年8月27日)

ヴェルサイユ行進(1789年10月5日)

1790年
高等法院の廃止(1790年2月?7月)

貴族階級の廃止(英語版)(1790年6月19日)

聖職者民事基本法(1790年7月12日)

1791年
ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月20日?21日)

シャン・ド・マルスの虐殺(1791年7月17日)

ピルニッツ宣言(1791年8月27日)

1791年憲法(1791年9月3日)

立法議会(1791年10月1日?1792年9月)

1792年
ブラウンシュヴァイクの宣言(1792年7月25日)

パリ・コミューンの暴徒化(1792年6月)

8月10日事件(1792年8月10日)

九月虐殺(1792年9月)

国民公会(1792年9月20日?1795年10月26日)

第一共和政の成立(1792年9月22日)

1793年
ルイ16世の処刑(英語版)(1793年1月21日)

革命裁判所(1793年3月9日?1795年5月31日)

恐怖政治(1793年6月27日?1794年7月27日)

公安委員会

保安委員会


ジロンド派の追放 (en) (1793年6月2日)

マラーの死(1793年7月13日)

国民総動員令(1793年8月23日)

反革命容疑者法(1793年9月17日)

マリー・アントワネットの処刑(1793年10月16日)

反教権立法(通年)

1794年
ダントンデムーランの処刑(1794年4月5日)

プレリアール22日法(1794年6月10日)

テルミドールの反動(1794年7月27日)

最初の白色テロ(英語版)(1794年秋)


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