プリンス・オブ・ウェールズ
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「プリンス・オブ・ウェールズ」のその他の用法については「プリンス・オブ・ウェールズ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

グレートブリテン及び北アイルランド連合王国
プリンス・オブ・ウェールズ
(ウェールズ公)
Tywysog Cymru
Prince of Wales
公紋章
在位中のプリンス・オブ・ウェールズ
(ウェールズ公)

ウィリアム
2022年9月9日より
詳細
敬称殿下(his Highness)
初代エドワード2世
成立1301年
宮殿ケンジントン宮殿
アデレードコテージ
任命権者国王
チャールズ3世
ウェブサイトhttps://www.royal.uk/the-prince-of-wales
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先代のプリンス・オブ・ウェールズ、チャールズの紋章。紋章中央にインエスカッシャンされている赤と黄金の獅子の紋章がウェールズ公国以来のプリンス・オブ・ウェールズの紋章である。

プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ語: Tywysog Cymru、英語: Prince of Wales)、またはウェールズ公(ウェールズこう)は、イギリスにおいて、王位法定推定相続人たる王子に与えられる称号。これまで王女に与えられた例はない。もとは字義の通りウェールズ君主を意味したが、14世紀にイングランドがウェールズを征服して以降、この称号をイングランド(のちのイギリス)君主の男子の跡継ぎに与えるようになり、これが立太子の意味を持つようになった。

2022年9月8日、プリンス・オブ・ウェールズだったチャールズ3世は、国王に即位すると、翌9日、長男ウィリアムにプリンス・オブ・ウェールズの称号を与えた[1][2]

2013年王位継承法の制定までは、男子優先長子相続制により、君主の長女(王女)は兄や弟がいなくても法定推定相続人とはならなかったため、この称号も授与されなかった。例えば、エリザベス2世は王位継承前には「エディンバラ公爵夫人エリザベス王女(The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh)」と呼ばれていた。

プリンス・オブ・ウェールズには「殿下」(His Royal Highness)の敬称が与えられ、その妻はプリンセス・オブ・ウェールズ(Princess of Wales)の称号を帯びる。ただし、即位前にプリンセス・オブ・ウェールズの地位にあったチャールズの後妻カミラは、国民的人気が高い前妻のダイアナ[注釈 1]に遠慮し、コーンウォール公爵夫人(スコットランドにおいてはロスシー公爵夫人)の称号を名乗っていた。

なお、日本では、歴史的人物を除き、君主の後継者である王子(皇子)を表す称号として「皇太子」と訳す。
起源

もともとプリンス・オブ・ウェールズの称号は、グウィネズ地方のウェールズ人支配者(公)、末代公サウェリンことサウェリン・アプ・グリフィズがウェールズのほぼ全域のウェールズ人諸侯に支配力を及ぼして、全ウェールズの君主としてウェールズ公(ラテン語: Princeps Walliae、ウェールズ語: Tywysog Cymru)の称号を名乗ったことに始まる。この場合のプリンケプスは王子の意味ではなく、君主(元は「第一人者」の意)、すなわち「」あるいは「大公」と訳される地位のことであり、現在でもアンドラ公国モナコ公国リヒテンシュタイン公国において用いられている(princeの語源も参照)。なお、イギリスの王子が一般に「プリンス」と称するのはハノーヴァー朝以降である。

ウェールズ諸侯の名目上の主君であるイングランド王ヘンリー3世は、1267年にサウェリンをプリンス・オブ・ウェールズとして承認し、ここにウェールズ公国(Principality of Wales)が成立した。しかし、ヘンリー3世を継いだイングランド王エドワード1世はサウェリンと対立、1282年から1283年のウェールズ侵攻で、サウェリンを敗死に追い込み、サウェリンの弟ダヴィズを処刑してその一族を滅ぼした。

エドワードはサウェリンの作ったウェールズ公の黄金の冠をイングランドに持ち去ってウェストミンスター寺院に安置すると、ウェールズ公国をイングランド王の所領に定め、グウィネズを始めとするウェールズ諸侯領を奪ってウェールズ公直轄領とした。王宮所在地はグウィネズのカーナーヴォン城に定められるが、1284年、ここでエドワード1世の子エドワード(後のエドワード2世)が生まれた。

1301年、エドワード1世はウェールズ人の反乱を抑えるため、王子エドワードにプリンス・オブ・ウェールズの称号を授けてウェールズの名目上の君主とした。このために、身重の王妃エリナーを当時ウェールズ侵攻の前線基地であったカーナーヴォン城に連れて行き、そこで王子を出産させたのである。エドワード2世をウェールズ人に「ウェールズ生まれの」支配者として受け入れさせるためであった。エドワード1世はウェールズの諸侯に赤ん坊を見せて「ウェールズ生まれで英語を話さない」と即位を認めさせた、という逸話がある(ただし、当時のイングランド王は英語ではなくフランス語を常用していたため、この逸話の真実性には疑問がある)。

のちにエドワード2世の子エドワード3世1343年、自身の長男で第一王位継承者のエドワード(黒太子)にプリンス・オブ・ウェールズの称号を与え、エドワードがイングランド王位を継ぐ前に死去すると、プリンス・オブ・ウェールズはその長男の次期国王リチャード(2世)に譲られた。こうしてイングランドの次期国王がプリンス・オブ・ウェールズとなる慣例が定着し、現在に至るまで続いている。
プリンス・オブ・ウェールズ一覧
アベルフラウ家

肖像名前生没年付記
ダヴィズ・アプ・サウェリン
1244年 - 1246年1212年3月 - 1246年2月25日
サウェリン・アプ・グリフィズ
1246年 - 1282年1228年頃 - 1282年12月11日ダヴィズの甥。
ダヴィズ・アプ・グリフィズ
1282年 - 1283年1238年7月11日 - 1283年10月3日サウェリンの弟。

プランタジネット家

肖像名前生没年付記
エドワード
1301年 - 1307年1284年4月25日 - 1327年9月21日イングランド王エドワード1世の四男。後のイングランド王エドワード2世。
エドワード
1343年 - 1376年1330年6月15日 - 1376年6月8日エドワード2世の孫。エドワード黒太子。
リチャード
1376年 - 1377年1367年1月6日 - 1400年2月14日エドワード黒太子の次男。後のイングランド王リチャード2世。


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