プリマス植民地
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プリマス植民地
Plymouth Colony




公用語英語
首都プリマス
統治者知事
人口到着時:102名、解消時:約7,000名
設立
解消1620年11月13日
1691年10月17日
通貨英ポンド

プリマス植民地(プリマスしょくみんち、: Plymouth Colony, New Plymouth, The Old Colony)は、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地の魁けである。最初の入植地は、ジョン・スミス船長によって前もって探査され名付けられていたニュープリマスだった。この入植地は植民地の首都となり、現在はマサチューセッツ州プリマスとなっている。その最盛期には現在のマサチューセッツ州南東部の大半を領有していた。
歴史

プリマス植民地は、後にピルグリム・ファーザーズとして知られるようになる宗教的分離派によって設立され、バージニア植民地ジェームズタウンと共に、イギリスが設立した北アメリカにおける最も初期の植民地であり、ニューイングランド地域では最初の相当な大きさのある恒久的入植地となった。インディアンのスクァント酋長の助けを得て、植民地の成功を請け合ってくれたマサソイト酋長と条約を結ぶことができた。プリマス植民地は、インディアン戦争の戦いの中でも最も初期で血腥いものとなったフィリップ王戦争では中心的な役割を果たした。最終的にプリマス植民地はマサチューセッツ湾植民地と合併した。

プリマス植民地はアメリカの歴史の中で特別の役割を果たした。プリマスの市民は、ジェームズタウンの多くの入植者の様に起業家であるよりも、宗教的迫害を逃れ、神を崇めるために適した場所を探したものだった。植民地の社会的また法的体系は市民の信仰に密接に結びついたものだった。プリマス植民地の多くの人々と、またそれを取り巻く出来事はアメリカの神話となり、感謝祭という北アメリカの伝統となった事柄やプリマス・ロックという記念碑を生んだ。プリマス植民地は比較的短期間で消滅したものの、今日でも「アメリカン」と言われるものの重要な象徴になってきた。
発端「ピルグリム・ファーザーズ」も参照スクルービーの村。1607年までピルグリムの本拠だった。

プリマス植民地は、後にピルグリムとして知られるようになった一群の人々によって創設された。その集団の中核は成人の40%、家族集団の56%であり[1]ジョン・ロビンソン牧師、ウィリアム・ブリュースター司祭、およびウィリアム・ブラッドフォードが先導した宗教的分離派信徒の一部だった。イングランドのノッティンガムシャー州スクルービーの町にいる時に、信徒達は宗教的迫害の圧力を感じるようになった。1604年のハンプトンコート会議で、イングランド王ジェームズ1世ピューリタンプロテスタント分離派を望ましくないものと宣言し、1607年、ヨーク大司教は幾人かの信徒の家を襲って牢獄に収監した。[2][3]このために信徒達は1609年にイングランドを離れ、オランダに移動して、最初はアムステルダムに、後にライデンに住み着いた。[4]

ライデンで信徒達はその選んだままに信仰する自由を味わったが、オランダの社会はこれら移民達には馴染めないものだった。スクルービーの町は農業に基づく地域社会であり、ライデンは産業の盛んな中心地であって、生活の速度がピルグリムには随いて行けないものだった。さらに信徒の社会は結び付きの強いままだったが、子供達はオランダの習慣と言語に慣れ始めた。ピルグリムは、この時もイギリス王室からの迫害と無縁では無かった。1618年にウィリアム・ブリュースターがイングランド王とイングランド国教会を強く批判する文書を出版すると、イギリス当局はブリュースターを逮捕するためにライデンにやってきた。ブリュースターは逮捕を免れたが、この出来事は信徒達にイングランドからはもっと離れた所に移動しなければならないという動機を与えた。[5]

1619年6月、ピルグリムは、ニューネーデルラントのケープコッド南部に入植する機会をオランダの影響力を避けたいと思ったために辞退した後[6]、ロンドン・バージニア会社からハドソン川河口に入植する許可を与える土地特許を得た。次に、植民地建設がその宗教を広め利益にも繋がる手段と考えるピューリタン実業家の集団であるマーチャント・アドベンチャラーズを通じて、移民のための資金を集めた。アメリカに到着したときに、ピルグリムはその負債を支払うために働き始めた[7]

マーチャント・アドベンチャラーズからの資金を元に、ピルグリムは食料を購入し、2隻の船メイフラワー号とスピードウェル号の運賃を支払った。1620年早々に出発するつもりだったが、航海計画の変更や資金面の問題を含め、マーチャント・アドベンチャラーズとの間に片付けなければならないことが出てきたために、数ヶ月遅れることになった。ピルグリムがオランダのデルフスハーフェン港からスピードウェル号で出発したのは1620年7月だった。[8]
メイフラワー号の航海

メイフラワー号はスピードウェル号と落ち合うためにイングランドのサウサンプトンに寄港し、物資や他の乗船客を乗せた。サウサンプトンで一行に加わった乗船客の中には、一年の大半を隠れて過ごしていたウィリアム・ブリュースターを含む数人のピルグリムと、ピルグリムにとっては「異邦人」と見られる一群の者達がいた。この後者の集団の大半はマーチャント・アドベンチャラーズの募集に応じた者であり植民地の統治を行うと共に、植民地を立ち上げるための付加的な働き手という位置付けだった。異邦人の中には植民地の軍事的指導者となるマイルス・スタンディッシュ大西洋航海中の指揮者となるべくマーチャント・アドベンチャラーズに指名されていたクリストファー・マーチン、およびウィリアム・シェイクスピアの「テンペスト」のモデルにもなったと言われ、植民地経営に失敗した経験のあるステファン・ホプキンスがいた。[9]ピルグリムの船出

メイフラワー号とスピードウェル号のアメリカへの出発は更に遅れた。マーチャント・アドベンチャラーズとの考えの不一致でサウサンプトンでしばらく留まった。総人数120名の乗客は、メイフラワー号に90名、スピードウェル号に30名が分乗し、8月15日にやっと出航した。[10]いざ、サウサンプトンを出港したものの、スピードウェル号に重大な水漏れが発生し、即座にダートマスに帰港する必要が生じた。修理が完了しても、今度は追い風を得られずにさらに遅れた。2隻の船はランズ・エンド岬を過ぎて200マイルも行かないうちに、またスピードウェル号に水漏れが発生して、イングランドへ後戻りを余儀なくされた。今回はプリマス港だった。スピードウェル号は航海に耐えられないと判断され、移民を諦めた者もいたが、残りはメイフラワー号に乗り移り、既に積載量の多かった船がさらに混雑することになった。後に、スピードウェル号の船長が当てにならない大西洋を越える航海を避けるために意図的に罷業したのだという風評が広まった。[11]

メイフラワー号は102人の移民を乗せて、1620年9月6日にプリマスを出港した。僚船のスピードウェル号は無く、具体的にハドソン川河口に移住することを認める土地特許を持って新世界へ船出した。途中で強い西風に会いまたメキシコ湾流のせいもあって、航海は2ヶ月を要した。11月9日ケープコッドの海岸沖で陸地を発見した。メイフラワー号は指定されたハドソン川河口の場所に上陸するために南に向かおうとしたが、ケープコッドとナンタケット島の間の浅瀬、ポーラックリップ海域で障害が起こった。冬に向かおうとしている時期であり、食料も危険なまでに底を突いた状況だったので、乗船客は北へ戻り、当初の上陸計画を棄てることにした。[12]
白人の探検と入植ジョン・スミス船長が1616年に作成した「ニューイングランドの記述」の表紙

ピルグリムはその地域で初めての人間ではなかった。その地域固有のインディアン以外にも、ヨーロッパ白人による1世紀近い探検、漁労および入植の歴史があった。


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