プリズレン
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プリズレン
Prizren
Prizren / Призрен


基礎自治体基礎自治体

位置

コソボでのプリズレンの位置
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度13分0秒 東経20度44分0秒 / 北緯42.21667度 東経20.73333度 / 42.21667; 20.73333
行政
コソボ
 プリズレン郡
 基礎自治体プリズレン
人口
人口(2006年現在)
  基礎自治体域171,464人
その他
等時帯CET (UTC+1)
プリズレンの景色プリズレンの景色プリズレン連盟の建物セルビア正教会の聖堂

プリズレン(アルバニア語: Prizren、セルビア語:Призрен)は、コソボ南部に位置する歴史的な都市で、プリズレン郡の中核都市である。都市の人口は約170,000人であり、ほとんどがアルバニア人である[1]。プリズレン基礎自治体は、プリズレンの町と76の村々で構成され、その人口は約221,000を抱えるものと推計される[2]

プリズレンは、コソボ南部 シャール山地の北斜面に位置する[1]アルバニアおよび北マケドニア共和国と国境を接する。
歴史
古代から中世まで

プリズレン峡谷の名前は 古くイリュリア人の時代に遡る。都市として古代ローマ時代には存在しており、2世紀に「テランダ」(Theranda)という名前でクラウディオス・プトレマイオスゲオグラフィアに記されている[要出典]。5世紀に、「ペトリジェン」(Petrizen)という名前で プロコピオスの「De aedificiis」に現れる(4巻 , 4章)。位置が明らかではないローマ都市「ユスティニア・プリマ」(Justiniana Prima、ユスティニアヌス1世により造営された都市)との関連も指摘されている [要出典]。

これらの名前は古代セルビア語で「要塞」を「Призр?нь / Prizenj」が語源であると、ミリャナ・デテリッチ(Mirjana Deteli?)の著書[3]で指摘されている(チェコの都市ブルノの旧称P?iz?enice同様)。

エリック・ハンプ(Eric Hamp)によれば、この プリズレンという名前 は、「pri」が「要塞、都市」を意味し、「Zeranda」は、テランダを意味する修飾で、これらの語から「プリゼランダ」(Prizeranda)となったという。そこから、数多くの類似した呼称プリセランディ(Priserendi)、ピュセレンディ(Pyrserendi)、プリセレンド(Priserend)、プリゼレン(Prizeren)、ピルゼリン(Pirzerin)、プリズレン(Prizren)などが生じた[要出典]。

西暦830年代まで、この都市と領域はブルガリア帝国の版図であったが、1018年、サムイルの死後、ブルガリア帝国が東ローマ帝国に併呑されたことに伴い、ブルガリア・テマ(軍管区)が置かれ、プリズレンに主教座が創建された。

西暦1072年、ゲオルギ・ヴォイテの反乱により ゲオルギ・ヴォイテに支配される。ドゥクリャのセルビア人領主、ヴォイスラヴリェヴィッチ家のミハイロ・ヴォイスラヴ王の息子 コンスタンティン・ボディン(ペタル3世)は父王とペトリロ公からセルビア人精兵300を預かり、プリズレンのヴォイテ軍に合流した。そこでボーディンは、コミトプリ家の「ペーテル3世、ブルガリアのツァール」として即位した。彼らの反乱軍は東ローマ軍の攻撃によって、1073年に壊滅し、プリズレンは再び東ローマの治下に戻った。東ローマ帝国と第4回十字軍との戦いの最中、1189年プリズレンは東ローマ帝国に叛いたセルビア公ステファン・ネマニャによって占領されるが、1191年三度東ローマ帝国の治下に戻った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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