コソボの歴史
古代 - 中世
イリュリア
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セルビア王国
コソボの戦い
オスマン帝国(1455 - 1912)
ルメリ
コソボ州
プリズレン連盟(プリズレンれんめい、アルバニア語: Lidhja e Prizrenit)は 1878年6月10日アルバニア人の政治的機関としてオスマン帝国コソボ州のプリズレンで結成した。その目的は、バルカン半島のアルバニア人居住地をスラヴ国家による併合から守り、オスマン帝国の下での自治権を獲得することであった。19世紀末におけるバルカン半島の民族分布図 プリズレン連盟の歴史は 19世紀のサン・ステファノ条約の頃、オスマン帝国皇帝のアブデュルハミト2世が、スラブ国家による侵略からオスマン帝国領を守るために、アルバニアとボスニア・ヘルツェゴビナに居住するイスラム教徒を支援したことによる。これはアルバニア人の運動に起源を持つものの、後にアルバニア民族主義者と、信仰している宗教を問わないアルバニア人の権利が支えとなり、汎アルバニア国民連盟へと転化した。 露土戦争により、バルカン半島へのオスマン帝国の影響力は大きく失われ、マケドニア地方とアルバニア人が住む地域を辛うじて保持するに至った。アルバニア人は彼らの土地がモンテネグロ、セルビア、ブルガリア、ギリシャに分割されてしまうことを恐れ、抵抗運動が活発化した。まず露土戦争終結後の最初の条約、サン・ステファノ条約では、アルバニア人の住む地域をセルビアおよびモンテネグロとブルガリアへ割譲することが決められたが、ロシアの影響力の拡大に対する恐れと勢力均衡を覆そうとするオーストリア=ハンガリー帝国やイギリスによって妨害を受けて条約は破棄された。西欧列強間の揉め事は、その年の内にベルリンの講和会議で収拾された。 サン・ステファノ条約は、アルバニア人およびボスニア人の間に深刻な懸念を惹起し、彼らの指導者に対して、居住地の自警団を組織しようとする状況に拍車をかけることになった。1878年春、コンスタンチノープルに影響力を持つアブデュル・フラシェリ(Abdyl Frasheri)を含む初期のアルバニア国民運動の重要人物たちは、アルバニア民族に対して抵抗を指示する委員会を組織した。5月にこのグループはアルバニア人が住む全ての地域の代表者を集めた総会を開いた。1878年6月10日に約80人の代表者が、コソボ州の都市プリズレンで会合した。彼らのほとんどはイスラム教指導者であるが、氏族長や、その他にも4つのヴィライェトにおいて影響力を持つ人々が集まった。代表者たちは、徴税権と軍隊の設立の権限を持った中央委員会の指導の下に、政治機関としてのプリズレン連盟を結成することを決めた。プリズレンにあるプリズレン連盟の建物 発足当時オスマン帝国の当局は、プリズレン連盟を支援する立場にあった。いずれにせよ 大宰相府は、代表者らにアルバニア人であることより、むしろオスマン帝国民であることを、彼ら自身が最初に宣言するよう圧力を加えた。 何人かの代表者は、イスラーム教の土地、すなわち現在のボスニア・ヘルツェゴビナに至る、イスラム教徒の団結と防衛に力点を置くべきであると主張し、彼ら以外の代表者たちはフラシェリの指導の下、アルバニアの自主性の確保と、宗教および種族の境界線を越えた アルバニア人 という国民のアイデンティティの確立のために働くべきであると主張した。 一方、列強の主導するベルリン会議は、連盟から送られた覚書を無視し、ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは、アルバニア民族など存在しないとまで宣言した。 宣言後しばらくして、ビスマルクは自ら アルバニアは単に地理的概念を示す語彙に過ぎないとする認識の誤りを自ら認めることになった。
連盟の創立まで
連盟の歴史