プリスカの戦い
ブルガリア・東ローマ戦争中
時811年
場所プリスカ
結果決定的なブルガリア帝国の勝利
衝突した勢力
第一次ブルガリア帝国東ローマ帝国
指揮官
クルムニケフォロス1世
戦力
6万2000[1]
(はっきりしない)6万 - 8万[2][3]
(推定)
被害者数
不明壊滅
プリスカの戦い(英: Battle of Pliska)は、811年に第一次ブルガリア帝国と東ローマ帝国との間で行われた戦いである。この戦いで皇帝ニケフォロス1世は戦死し、ブルガリアが勝利した。ローマ皇帝の戦死はウァレンス以来のことである。 ブルガリアはクルム・ハーンの下で勢力を拡大し、807年には後に首都となるソフィアを占領した。皇帝ニケフォロス1世はブルガリア問題を解決するため、大軍を率いてブルガリアに侵攻を開始した。 ニケフォロス1世はブルガリアの首都プリスカを占領し、町を焼き払い廃墟にした。クルムは和平を結ぼうとしたが、ニケフォロス1世はこれを受け入れず、さらに進軍した。一方クルムも、侵攻路に柵をひそかに建設させ、東ローマ軍の退路を断ち、戦闘の準備をしていた。7月25日、バルビツィア峠 なお、バルビツィア峠はプリスカの西南約80km地点にあり、プレスラフからも30km西南にあたる。ニケフォロス軍のプリスカ占領時は若干の守備隊を除いて、主力軍はいなかった。このことから、この戦いの名称はバルビツィア峠の戦いと呼ぶ方が適している(ブルガリア語版ウィキペディアでも「Битка при Върбишкия проход
背景
戦闘
名称
脚注^ Scriptor Incertus, p.148-149
^ Ivanov, Ivo (June 2007). ⇒“The Address of a Victory”. Bulgarian Soldier 6: Online Edition (in Bulgarian). ⇒http://bgsoldier.eamci.bg/Scripts/isapiVWB.dll/theme?THEMEID=87232.
^ ⇒Military history of Bulgaria Archived