プリイェドルの虐殺
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プリイェドルの虐殺(プリイェドルのぎゃくさつ)、プリイェドルの民族浄化、あるいはプリイェドル・ジェノサイド[1][2][3]セルビア語ボスニア語クロアチア語:Genocid u Prijedoru)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中の1992年セルビア人政治的および軍事的指導のもとで、主にボシュニャク人の民間人を対象に、ボスニア・ヘルツェゴビナプリイェドル地域で行われた一連の戦争犯罪である。スレブレニツァの虐殺に次いで、その規模はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で行われた虐殺の中で2番目に大きなものである。サラエヴォに拠点を置く「サラエヴォ研究・文献情報活動センター」によると、プリイェドル出身の5,200人のボシュニャク人およびクロアチア人がこの間に死亡するか行方不明となり、その周辺地域も合わせればその数はおよそ14,000人に達する。[4]
背景

1991年6月のスロベニアおよびクロアチアの独立宣言につづいて、プリイェドル自治体の状況は急速に悪化していった[5]。クロアチアでの戦争が始まると、地域のセルビア人クロアチア人ボシュニャク人の共同体の間での緊張関係が高まった。

ボシュニャク人とクロアチア人は、セルビア人プロパガンダ流布によって次第に姿をあらわしてきた危険と恐怖の高まりによって、自治体から脱出を始めた。自治体の新聞( ⇒"Kozarski Vjesnik")は、非セルビア人に対する敵対感情を公然と表すようになった。セルビア人によるマスメディアは、セルビア人たちに武装を呼びかける宣伝をした。「ウスタシャ」(Usta?e)、「ムジャーヒディーン」(Mud?ahedini)、「緑ベレー帽」(Zelene beretke)といった用語が、非セルビア人を意味する言葉として頻繁にメディアに登場した。プリイェドル・ラジオは、クロアチア人やボシュニャク人を侮辱するプロパガンダを流布した。コザラ山(Kozara)の送信機1991年8月にセルビア人の準軍事組織・「ヴチャク(Vu?ak)の狼」にのっとられたことにより、TVサラエヴォの放送は受信できなくなった。それに代わってこの送信機からは、ベオグラードバニャ・ルカから発信される、セルビア人の過激な政治家らのインタビューや、社会主義時代は禁じられていたセルビア人の民族主義者の歌などが繰り返し流された[5][6]
乗っ取り前の政治的状況

1992年1月7日ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国が建国を宣言する2日前、12月19日にプリイェドル自治体のセルビア人議員らと、地元のセルビア民主党の支部は、「緊急事態による、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人機関の組織と活動に関する命令」を採択した。ミロミル・スタキッチ(Milomir Staki?)は、後に、クロアチア人およびボシュニャク人に対する複数の人道に対する罪旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)に訴追された人物であるが、このスタキッチはプリイェドル自治体の議会議長に選出された。その10日後にあたる1992年1月17日、議会は、独自のセルビア人による領域を作るため、「ボスニア・クライナ自治州」への編入を採択した。

1992年4月23日、セルビア民主党は、特に、すべてのセルビア人部隊はユーゴスラビア人民軍(JNA)との協力の元、自治体を乗っ取ることを決定した。1992年4月の末には、複数の秘密の警察署が自治体各地に設けられ、1500人を超える武装したセルビア人らは自治体乗っ取りに加担した[6]
乗っ取り

セルビア民主党に属するセルビア人政治家らによって、地域の乗っ取りの宣言が準備された。宣言は、乗っ取りが完了した翌日にプリイェドル・ラジオを通じて読み上げられ、一日中繰り返して放送された。乗っ取りを計画している段階では、乗っ取りに加担するのに十分な量のセルビア人の警官の人数は400人であるとされた。乗っ取りの対象は、自治体の市長、副市長、郵便局長、警察署長などの地位と定められた。

4月29日から4月30日にかけての夜、権力の乗っ取りは実行に移された。公共の治安機関と予備警察隊はプリイェドル市内のチルキン・ポリェ(?irkin Polje)に集まった。集まったのはすべてセルビア人であり、その中には軍服を着ている者もいた。彼らは、大きく5つの集団に分けられ、それぞれ自治体乗っ取り計画のタスクを割り当てられた。それぞれの集団は約20人から構成され、それぞれにリーダーがいる。それぞれの集団は、特定の建物の支配権を奪うよう命じられている。あるグループは議会庁舎を乗っ取る計画を任されていた。別のグループは自治体でメインの警察署の建物の乗っ取りを任され、また別のグループは裁判所を、銀行を、そして郵便局を乗っ取るタスクを担っていた[7]

旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)は、セルビア人政治家による自治体の乗っ取りは、違法なクーデターであり、純粋にセルビア人のみによる自治体を作るという究極の目的のために、長期にわたって計画・立案されてきたものであると結論付けている。この計画は秘密のものではなく、セルビア人の警察や軍隊、政治家らによって立案された計画に基づいてクーデターは実施されたものとしている。その中で主導的な役割を果たした者の一人がミロミル・スタキッチ(Milomir Staki?)であり、スタキッチは乗っ取り後の自治体の政治において支配的な立場となった[7]
市民への武力攻撃

乗っ取りの後、自治体の市民生活は一転した。プリイェドル自治体の非セルビア人市民の間では、緊張と恐怖が一挙に増大した。プリイェドルの町でのセルビア人の兵力の存在感は大きく増していた。武装した兵士らは、プリイェドルの町のすべての高い建物の上に配置されており、セルビア人の警察は自治体の各所に検問所を設けた。

ICTYによるミロミル・スタキッチの裁判で法廷は、1992年に自治体の領域内において、多くの人々が、セルビア人勢力によるボシュニャク人主体の町や村への攻撃によって殺害され、ボスニア・ムスリム人に対する複数の虐殺が起こり、またボスニア・ムスリム人に対する複数の大規模な蛮行があったことは、合理的な疑いなく証明されたと認定した[8]
プロパガンダ

乗っ取り後、プリイェドル・ラジオは、セルビア人民族主義的な思想を流布した。その中では、非セルビア人を犯罪者扱いし、また罰せられるべき極論主義者であるとした[5]。その一例として、侮辱的な用語を用い、非セルビア人らを「ウスタシャ」、「ムジャーヒディーン」、「ゼレネ・ベラクテ」等と呼んだ。印刷・放送の双方のマスメディアがプロパガンダを流布しており、ICTYではそれらを「まったくの虚構である」と結論付けている。流布されたプロパガンダの中には、次のようなものが含まれる。ボシュニャク人の政治家、ミルサド・ムヤジッチ(Mirsad Mujad?i?)は、セルビア人女性に男児を産めないようにする薬を注入していると糾弾された。クロアチア人のジェリコ・シコラ(?eljko Sikora)は、「怪物医師」と呼ばれ、セルビア人女性が男児を妊娠したら中絶させ、またセルビア人の男児を去勢しているとされた。さらに、1992年6月10日のKozarski Vjesnikの記事では、オスマン・マフムリン(Osman Mahmuljin)が、心臓病を持っていたセルビア人の同僚ジヴコ・ドゥキッチ(?ivko Duki?)に対して故意に誤った薬物投与を行ったとしている。そして、ラドイカ・エレンコヴ(Radojka Elenkov)がマフムリンによってはじめられた治療を中断したことによって一命を取り留めたとしている。

これらの主張は、セルビア人らに対して非セルビア人を集団攻撃するようけしかける目的で広く流布され、特に社会的地位の高い非セルビア人を対象としてでっち上げられたものである。その対象とされた中には、ムハメド・チェハイッチ(Muhamed ?ehaji?)、ツルナリッチ(Crnali?)、エソ・サディコヴィッチ(Eso Sadikovi?)、オスマン・マフムリン(Osman Mahmuljin)などがいた。スタキッチに対するICTYの裁判の中で、Kozarski Vjesnikの監修者ミレ・ムティッチ(Mile Muti?)やジャーナリストのラデ・ムティッチ(Rade Muti?)らが、地元のセルビア人政治家と頻繁に会合し、次に流布するべきプロパガンダについて知らされていたと結論づけている[9] [10]


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