プリアモスの財宝
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プリアモスの財宝
Priam's Treasure
1880年に分割されたためそれ以前の撮影と考えられる
材質, , など
製作紀元前2450年頃
発見1873年5月31日
発見者ハインリヒ・シュリーマン
場所 オスマン帝国
チャナッカレ近郊のヒッサリクの丘
所蔵プーシキン美術館, モスクワ
プーシキン美術館公式サイト
プーシキン美術館バーチャル・ツアー
ハインリヒ・シュリーマン。プリアモスの財宝の1つ「ヘレネの装身具」を身につけたシュリーマンの第2の妻ソフィア・シュリーマン(英語版)。1874年頃撮影。

プリアモスの財宝(: Priam's Treasure)は、アマチュア考古学者ハインリヒ・シュリーマンが古代トロイアの遺跡から発見した黄金の装飾品およびその他の工芸品からなる遺物である。

シュリーマンはトロイア遺跡から持ち帰った多数の出土品のうち約8,000の遺物を神話的なプリアモス王の時代のものと考えたが、現在では年代的に誤りであると考えられている。シュリーマンは1881年にこの財宝をドイツ帝国に寄付したが、その中の特に重要な部分が第二次世界大戦の終わりにソ連によってベルリンから持ち去られた。現在はその半数以上がモスクワプーシキン美術館に所蔵されており、ベルリンではオリジナルの複製が展示されている。
発見

プリアモスの財宝は1873年5月31日にハインリヒ・シュリーマンによって発見された。シュリーマンはオスマン帝国(現代のトルコ)のチャナッカレの南20キロの地点にあるヒッサリクの丘をホメロス叙事詩イリアス』で歌われているトロイア王国があった場所と確信しており、その歴史的な痕跡を求めて、プリアモス王が統治しトロイアが陥落したと想定される年代に達するまで、地層のすべてをためらうことなく掘り返した。1873年4月に彼が発見したのは、火災によって破壊された都市の遺跡であり、その年代は紀元前2450年頃に相当する。シュリーマンは、2つの大きな扉、石の手すり、彼がプリアモスの宮殿として特定した建物の遺跡につながる2つの溝を発掘した[1]

数週間後の5月31日、シュリーマンは大都市の門の近くの壁に沿っていくつかの調査を行った後、約8.5メートルの深さで割れた銅製品を発見した。この発見に強く心を動かされたシュリーマンは崩落の危険を無視して掘り続け、さらにその下から大量の金の財宝を発見した。最後の「城壁」の後ろに、スカイア門とつながっている周囲の壁をさらに8メートルから9メートル掘りました。そしてこの壁とプリアモスの館のすぐ近くを掘り続けていると、非常に珍しい形をした大きな銅製品を手に入れました。この銅製品の下に黄金が光るのを垣間見たように思えたので、この発見はいっそう私の目を惹きました。ところがこの銅製品が置かれた層の上には厚さ1.50メートルの石灰化した赤い灰や焼けた破片が石のように固まった層が重なっており、さらにその上には前述の厚さ1メートル80センチ、高さ6メートルの、トロイア破壊後の最初の時代に由来するに違いない大きな石と土で構成された城塞の壁がありました。私は大きなナイフの助けを借りて財宝を発掘しました。しかし同時に私が雇った貪欲で抜け目のない人夫たちから財宝を守らなければなりませんでした。そこでまだ朝食の時間ではありませんでしたが、私はただちに休憩するように言って彼らを休ませ、その間にナイフで財宝を取り出しました。それは恐ろしい危険の下で超人的な努力を払うことでしか実行できない大仕事でした。崩れそうな城塞の壁がいまにも落ちて来そうだったからです。しかし、科学にとって非常に貴重であるにちがいない多くの遺物を見ると、私は無謀になり、危険をかえりみることはありませんでした。もっとも、親愛なる妻の助けがなければ財宝を運び出すことは出来なかったでしょう。彼女はいつも私が掘り出したものをショールに包み込んで運び出せるように準備してくれていたのですから。 ? ハインリッヒ・シュリーマン『トロイアの古代遺物 :トロイア発掘調査報告』(Trojanische Altertumer: Bericht uber die Ausgrabungen in Troja, 1874年[2]

その後、シュリーマンは発見した物を建設小屋に持ち帰り、それらを安全に保管し、分類した。出土品には互いに絡み合ったり、入れ子になっているものがあった。それらの中には、盾、平らな大釜、銅の短剣と槍の先、水差し、3つの銀の花瓶とナイフの刃、フラスコ、ゴブレット、2つの小さな金の鍋があった。最も大きな銀の花瓶には、2つのティアラ、細いヘッドバンド、4つのペンダント、6つのブレスレット、56個のイヤリング、8,750個の小さなボタンと指輪を含む金の装飾品が入っていた[3]

このシュリーマンの発見は多くの疑惑が指摘されている。シュリーマンに虚言癖があったことは明らかで、プリアモスの財宝の発見場所や発見した日といった重要な証言であっても、報告の草稿、単行本、図面で異なっている。たとえば発見場所は宮殿の一室、市壁、市壁の外と異なっている。またシュリーマンは発見の際に妻ソフィア(英語版)が財宝を運び出す役目を担ったと報告しているが、実際にはソフィアはアテネにいたことが分かっている。遺物の写真には2年前の出土品が含まれているだけでなく、他所で入手した遺物あるいは贋作を混ぜて出土品を水増した可能性も指摘されている[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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