プラークミンズ郡_(ルイジアナ州)
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ルイジアナ州プラクマイン郡
郡のルイジアナ州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1807年
郡名の由来ルイジアナ・フランス語でパーシモンを意味する
郡庁所在地ポワンタラハシュ (ルイジアナ州)(英語)
最大都市ベル・チャス (ルイジアナ州)(英語)
面積
 - 総面積
 - 陸
 - 水
6,648 km2 (2,567 mi2)
2,020 km2 (780 mi2)
4,628 km2 (1,787 mi2), 70%
人口
 - (2010年)
 - 密度
23,042人
12人/km2 (32人/mi2)
標準時中部: UTC-6/-5
ウェブサイト ⇒www.plaqueminesparish.com

プラークミンズ郡(プラークミンズぐん、: Plaquemines Parish、[?plak?m?nz] プラーキミンズ郡とも)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州の南東部隅、ミシシッピ川デルタ(英語版)に位置するである。2010年国勢調査での人口は2万3042人[疑問点ノート]であり、2000年の2万6757人から13.9%減少した[1]郡庁所在地国勢調査指定地域のポワンタラハシュ(英語版)(人口187人[2])であり[3]、同郡で人口最大の町はベルチャス(英語版)(人口1万2679人[4])である。

この郡はニューオーリンズメテリーケナー大都市圏に属し、またニューオーリンズ・メテリー・ボガルーサ(英語版)広域都市圏を構成している。
歴史

郡の名称はフランス・クレオール語アタカパインディアンの言葉でパーシモン()を意味する piakimin から採られた。フランス人ミシシッピ川の岸に建設した軍事基地にその名前を付けたものだが、その場所は多くのパーシモンの木で囲まれていた。その基地の名前が郡名となり、近くのバイユーにも付けられた。

ヨーロッパ人による郡内最古の開拓地はラ・バリーズ(英語版)であり、1699年にミシシッピ川河口近くにフランス人が粗野な砦を建てて住んだものだった。ラ・バリーズというフランス語は「海の標」を意味し、船の標識となるべく背の高い木造の構造物だった。フランス人は1721年にも62フィート (19 m) の高さの標を造った[5]。1720年頃に作られた地図では島と砦、および河口が示されている[6]

ミッシッピ川の交通と交易が増加するに連れて、複雑で常に変化する川の流れ、また砂州などを知悉した水先案内人の重要性が増した。彼らは家族を伴ってラ・バリーズ(英語版)に住むようになった。この集落は何度も破壊されては再建されたが、1860年のハリケーンで荒廃した後は放棄された。水先案内人達は上流に移り、「パイロットタウン」と名付けた開拓地を建設して住み始めた。19世紀にはその人口がピークに達した[7]。川の水先案内の仕事の重要度は続くが、従事者はより人口の多い地域に家族と住み、パイロットタウンには仕事の時に限り、一時的に留まるようになった。

重要な歴史史跡は1822年に建設されたジャクソン砦であり、米英戦争ニューオーリンズの戦いで英雄になったアンドリュー・ジャクソン将軍が推奨したものだった。南北戦争中の1861年、ジャクソン砦はミシシッピ川河口にあったので、アメリカ連合国軍がニューオーリンズ市を守るために重要なものになった。第一次世界大戦の1917年から1918年、アメリカ陸軍はここを訓練基地として使った。

プラクマイン郡はミシシッピ川河口から70マイル (100 km) に広がっているので、川沿いには幾つかの製油所があり、その製品の輸送を川に頼っている。ミシシッピ川はオフショアのオイルリグを支援する基地でもある。海外貿易にコンテナを用いるようになったことではアメリカ合衆国で最初の場所である。

1901年8月のハリケーンでブラスの町には4フィート (1.2 m) の水が来るなど被害が出た[8]

1900年代初期、郡内からは柑橘類が輸出された。農夫は鉄道とミシシッピ川を使って大量の商品を市場に送り出した。特に牡蠣を中心とする商業漁業も郡経済にとって重要なものだった。

1915年の大ハリケーンは郡内の多くの場所で被害を出し、ミシシッピ川両岸で堤防が決壊し、高潮は12フィート (3.6 m) に及び、数百人の死者を出した。多くの者が家を失い、慈善援助が届くまで飢えてしまう者もいた[9]。ポワンタラハシュの古い郡庁舎もこの嵐で破壊された建物群の1つであったが、1年経たないうちに新しい庁舎が完成した。

1919年から1969年、プラクマイン郡とセントバーナード郡は、政界の大物レアンダー・ペレスの支配するところとなり、ペレスは地域に事実上の専制を布き[10]選挙を操作し、厳しい人種差別を強いた。ペレスが死ぬとその息子達であるレアンダー・ペレス・ジュニアとチェイリン・ペレスが、それぞれ地区検事と郡長に選出されて政治を支配した。個人間の揉めごとからペレス家の実権が弱まると、1980年には政敵が選挙に勝てるようになった[10]

1927年のミシシッピ川大洪水のとき、市と州の指導者達はニューオーリンズの町を洪水から救うために、キャナル通りの下流13マイル (19 km)、カーナーボンの堤防をダイナマイトで爆破した。その結果、人口の少なかったセントバーナード郡やプラクマイン郡の大半が水没し、農作地や家屋に大きな被害をもたらした。

1965年、ハリケーン・ベッツィがこの地域を襲い、郡庁舎など多くの建物が浸水し、9人の死者が出た。レアンダー・ペレスは郡を外界から遮断する一方で州の援助を得ようとした[11]
歴史史跡詳細は「en:National Register of Historic Places listings in Plaquemines Parish, Louisiana」を参照

郡内には3つのアメリカ合衆国国定歴史建造物がある。

デ・ラ・ブーライエ砦史跡(英語)

ジャクソン砦(英語)

セントフィリップ砦(英語)

その他にアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定される場所が5つある。ウッドランド・プランテーション(英語)は1930年代以来、サザンカンフォートウィスキーのラベルに使われている。このプランテーションはミシシッピ川西岸、ウェストポワンタラハシュ(英語)にある南北戦争以前の邸宅(antebellum)が著名である。この邸宅は朝食付き宿泊施設として使われている。
ハリケーン・カトリーナ

2005年8月29日、アメリカ史上でも最悪の惨事がルイジアナ州を襲った。ハリケーン・カトリーナは州南部全体に深刻な被害をもたらした。プラクマイン郡では戒厳令が発せられたが、州法にはそのような用語が無いと多くのメディアが報じた[12]。被害の出なかった所は無いくらいで、プラクマイン郡、オーリンズ郡および隣接するセントバーナード郡の被害が大きかった。ポワンタラハシュ、ポートサルファー、ブラス・トライアンフ、エンパイア、ブースビル・ベニス、フェニックス、ベニスの町が莫大な損害を出した。上陸時(カテゴリー5)に激しい雨と時速120マイル (190 km/h) を超える暴風で、堤防が決壊した。高波は20フィート (6.1 m) にもなった。


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