「プラハ」のその他の用法については「プラハ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
プラハ
Praha
首都
プラハ都
Hlavni m?sto Praha
旗
紋章
標語: 百塔の街
"Praga Caput Rei publicae" (ラテン語)
"Prague, Head of the Republic"other historical mottos
"Praga mater urbium" (ラテン語)
"Praha matka m?st" (チェコ語)
"Prague, Mother of Cities"
"Praga Caput Regni" (ラテン語)[1]
"Prague, Head of the Kingdom"
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座標:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯50度05分 東経14度25分 / 北緯50.083度 東経14.417度 / 50.083; 14.417
プラハ(チェコ語・スロヴァキア語: Praha[6][7])は、チェコ共和国の首都であり、同国最大の都市。中央ヨーロッパ有数の世界都市。人口は、約120万人。北緯50度02分、東経14度45分に位置する。漢字表記は布拉格。プラーグ、フラーグとも。
市内中心部をヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ)が流れる[8]。古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れる。カレル大学は中欧最古の大学である。尖塔が多くあることから「百塔のプラハ」とも呼ばれる[9][注釈 1]。ティコ・ブラーエが天体観測を行った天文塔もそのひとつである。市内にはヤン・フスが説教を行ったベツレヘム礼拝堂などがある。ウィーンよりも遥かにドイツ寄りに位置し、ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめ、この地を首都にドイツ民族(および彼らが支配する中欧多民族帝国)に戴かれていた時期もあることから、独自のスラブ文化と併せて一種の国際性も古くから備えた都市となっている。
歴史1493年頃のプラハ1900年頃のプラハ国民劇場
6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ川河畔に集落が形成された。9世紀後半にはプラハ城、10世紀頃にヴィシェフラド城が建てられ、両城に挟まれたこの地に街が発達した。973年にキリスト教の司教座が置かれると、ユダヤ人の入植が始まった。しかし、プラハは度重なる戦渦に巻き込まれ、荒廃してしまう。
1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展。「黄金のプラハ」と形容されるほどだった。ヴルタヴァ川に架かるカレル橋とプラハ城
次代国王ヴァーツラフ4世(ドイツ語名ヴェンツェル)の治世、ヤン・フスによるローマ教皇庁への抗議が行われ、1415年にフスが火刑にされると、フス派によってフス戦争が勃発、ローマ教皇の十字軍を破るが、15世紀後半にハプスブルク家のアルブレヒト2世がボヘミア王になると、フス派はその支配下に入った。16世紀後半、ルドルフ2世の治世になると、芸術や科学を愛する王の下、プラハに芸術家、錬金術師、占星術師などが集められ、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として栄華を極めた。しかし、1618年にプラハ城で起きたプラハ窓外投擲事件を皮切りにビーラー・ホラ(白山)の戦いが勃発し、三十年戦争に発展。1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲されるが、ヴェストファーレン条約が締結され、戦争は終結した。しかし、王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減する。また、チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧や文化弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、2世紀以上にわたって「暗黒の時代」といわれるチェコ民族文化の空白時代を迎えることとなる。聖ニコラスの教会
一方で、1784年に4つの市議会に分かれていたプラハは、1つの市議会に統合された。その4区とは「フラッチャニ(城の丘)」(城塞・城塞の北部、および西部地区)、「マラー・ストラナ(小地区)」(下町、城塞の南部地区)、「スタレー・ムニェスト(旧市街)」(城塞の対岸・東側)、「ノヴェー・ムニェスト(新市街)」(その他の南方および東方地区)である。1848年に五区としてユダヤ人街(かつてのゲットー)が編入され、皇帝ヨーゼフ二世にちなんで「ヨゼフォフ」と名づけられた。20世紀初め、スラム化が一層進んだために大規模に再開発された。ユダヤ人墓地、シナゴーク、ユダヤ集会所などがある。さらに町は1883年に「ヴィシェフラド(「高い城」地区)」を、1850年に有名なユダヤ教徒コミュニティーの「ヨゼフォフ」の併合をし、更なる拡大をする。カレル橋