プラハ・カレル大学
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カレル大学チェコ語: Univerzita Karlova
大学本部棟
ラテン語: Universitas Carolina
旧称プラハ・カレル大学 Univerzita Karlova v Praze (チェコ語)
種別公立
設立年1348年
予算89億CZK (チェコ・コルナ)[1]
学長Toma? Zima (英語版)
教員数4,057人[1]
職員数4,026人[1]
学生総数49,236人[1]
学部生32,520人[1]
大学院生9,288人[1]
博士課程在籍者7,428人[1]
所在地 チェコ プラハ
キャンパス都市
スクールカラー .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  [2]
コインブラ・グループ
ヨーロッパ大学協会
公式サイト ⇒www.cuni.cz/UKEN-1.html
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カレル大学(カレルだいがく)またはプラハ大学(プラハだいがく、チェコ語: Univerzita Karlova v Praze、ドイツ語: Karls Universitat、英語: Charles University)は、1348年神聖ローマ皇帝カール4世ボヘミア王カレル1世)によって創立された、チェコプラハに所在する同国最高峰の総合大学であり、中欧東欧において最も歴史を有する[3][4][5][6][7]

ボヘミア王国の首都プラハが神聖ローマ皇帝の在所だった時期に、神聖ローマ帝国によって創立された帝国領内最古かつドイツ語圏最古の中世大学である。創立直後は、チェコ語の正書法を確立した宗教改革の先駆者ヤン・フスが活躍。第一次世界大戦第二次世界大戦期にたびたび分裂と閉鎖を繰り返し、現在は名称をカレル大学という。ヨーロッパにおいて長い歴史と権威を有する大学で構成されるコインブラ・グループに属する。大学の校舎は、たとえば本部と哲学部は旧市街、医学部はフラチャヌィの丘といった具合にプラハの街中に散在している[8]
学部

現在、以下の学部が設置されている。body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}

神学部

第1神学部(
カトリック

第2神学部(プロテスタント

第3神学部(フス派


法学部

芸術哲学部 - 日本学科がある。

教育学部

社会科学部

人文学部

医学部

第1医学部

第2医学部

第3医学部

プルゼニ校

フラデツクラーロベー校


薬学部

理学部

数物学部

体育スポーツ学部

歴史
プラハ大学の創立
創立者カール4世プラハにあるカール4世像

プラハ大学を創立したのは、まだローマ王(中世ドイツの君主)になって間もなかったカール4世(在位:1347年 - 1378年)である。カール4世は1316年にプラハで生まれた後、1323年から1330年までパリの宮廷に預けられ、パリ大学にて学問を修めている。この経験が、後の大学創設に影響を与えたと考えられている。またこの時期に、後のローマ教皇クレメンス6世と親交を結んでおり、この関係がプラハ大学創立を強く後押しした。パリ大学にて学問を修めた彼は、当時の君主の中でも屈指の教養ある君主として知られており、当時の共用語であったラテン語はもちろんのこと、チェコ語フランス語ドイツ語イタリア語を自由に使うことができたという。1346年、カール4世は父ヨハンの後を継いでベーメン(ボヘミア)王カレル1世になり、また前後して当時のドイツ国王ルートヴィヒ4世の対立王に選出される。1347年にルートヴィヒが死去すると単独のローマ王となり、1355年にローマにて神聖ローマ皇帝として戴冠を行っている。こうして神聖ローマ帝国皇帝となったカールは、ベーメンを帝国の中心とすべく様々な活動を行っていく。カールは、大学設立前の1344年にマインツ大司教座に属していたプラハ司教座を独立の大司教座へと昇格させている。このときカールは教皇クレメンス6世と交渉をしている。こうして、プラハ大学設立の準備が整い、創立の1348年を迎える。
プラハ大学創立

こうしてベーメンの首都プラハに大司教座がおかれ、カールはいよいよ大学設立の交渉を教皇クレメンス6世と開始する。初代プラハ大司教エルネストと教皇庁との交渉の結果、1347年に、クレメンス6世の名で設立特許文書が発布される。これを受けて、カールはベーメン王として1348年に設立特許文書をプラハにて発布する。その中で、首都プラハに大学(studium generale)を設置する旨を発表し、大学の学生と教師に様々な特権を付与することを述べている。その後、1349年の勅書(通称アイゼナハ特許状)にてこれを確認している。学監はプラハ大司教とし、教師と学生は主にプラハ市内から集められたが、ヨーロッパ各地からも集まった。大学の印章。1360年頃プラハのヤン・フスの銅像中世の文書に描かれた教師と学生
プラハ大学の組織

プラハ大学は、当時存在していた大学と同様に、神・医・法の上級3学部と教養学部からなっていた。大学所属員は、学部という所属と共に、主に出身地による4つの同郷団(natio: マイセンバイエルンポーランドベーメンの4つ)に属していた。つまり大学全体を2通りに分けていたのである。プラハ大学での大学所属員とは教師と学生を指しており、教師中心のパリ大学方式と学生中心のボローニャ大学方式を合わせた新たな方式といえよう。しかし、この両者を併せ持ったことにより、プラハ大学は様々な危機に直面することとなる。大学の意思決定機関は大学所属員全員による全学会議であったが、これとは別に大学評議会がつくられ、この評議員を教師が占めることになり、次第に大学は教師による運営へと傾いていく。
プラハ大学の分裂と特権剥奪
危機の予兆

教師中心の大学運営へと傾くにつれ、学生の中から不満をもつものが現れ始める。彼らは法学部所属の人間が多かった。結果として、大学所有の建物の管理をめぐる対立により、法学部が分離することとなる。この分離は、パリ大学方式とボローニャ大学方式を併せ持つことによるひずみが生じているのである。その後、この分離は収まるものの、その後の大学状況に大きな影を落とす。
ベーメン人の台頭

加えて、この時期ベーメン人とドイツ人との間の対立が激化した。そのような中現れたのが、ベーメンの神学者ヤン・フスであった。プラハ大学の学長を務めたほどの人物であったが、イングランドジョン・ウィクリフに影響を受けたその教えはやがてチェコ人の間に広まり、大学内に入った亀裂は次第に大きくなった。
皇帝位をめぐる争い

皇帝カール4世の死後、後を継いだのは息子のヴェンツェルであった。しかしヴェンツェルは「品行方性らしからぬ」という理由で1400年に皇帝位を廃位されてしまい、代わってプファルツ選帝侯ループレヒトが皇帝となる。しかしヴェンツェルはこれを認めず、ループレヒトと対立する。加えて、この当時キリスト教会内での教会大分裂によりヨーロッパ全土が分裂する中、ローマ派の教皇を支持するループレヒトに対し、ヴェンツェルは当時発言力を増していたベーメン勢力と手を結び、ベーメン国内のドイツ人たちを駆逐しようとする。
クトナー・ホラ勅令の発布とドイツ人の退去

かかる状況の中、1409年にヴェンツェルは「皇帝」としてクトナー・ホラ勅令を発布する。この勅令はプラハ大学の運命を決定するものであった。元来、大学での全学会議は先の同郷団単位での投票により決定されていた。しかし、プラハ大学ではドイツ人が優勢であり、ベーメン人の意見は通らないことが多かった(4つの同郷団のうち、ベーメン以外の同郷団はドイツ人で占められており、結果的に投票は3対1となってしまう)。クトナー・ホラ勅令は、この投票方式を変更するものであった。すなわち、ベーメン同郷団に3票の投票権を与える代わりに、ドイツ人系同郷団は1票しか行使できなくなったのである。こうして、ベーメン人は大学運営を自らに有利なように進めることができるようになったのである。他方、ドイツ人系大学所属員は不満をもち、ヴェンツェルに対して勅令の撤回を申し入れ、聞き入られない場合は大学を退去する旨の決議をした。しかし、ヴェンツェルはそれを受け入れず、新方式による投票でベーメン人の新学長選出を強行し学長職を譲るよう迫ったのである。これを受けて、ドイツ人たちはついに大学を退去する決意を固める。彼らは同年5月にプラハを退去し始める。彼らの多くは、商業都市として名声を博していたライプツィヒに移り住む。そしてこの地でライプツィヒ大学を創立するのである。

時代時期
創設期1349年?1419年
プロテスタント神学校1419年?1622年
大学再興(カトリック系)1622年?1882年
(1740年、帝国大学に移行)
大学の分割1882年?1940年[9]
チェコ・カレル大学に改称1940年5月8日[10]
プラハ・カレル大学1945年?現在

フス戦争と大学特権の剥奪

ドイツ人の去ったプラハ大学では、ベーメン人が中心となった。その彼らの精神的支柱となったのが、宗教改革の先駆者であるプラハ大学学長のヤン・フスであった。しかし、贖宥状の批判等の反教的言説によりカトリック教会から敵視され、教会大分裂を収束するためのコンスタンツ公会議でフスが有罪とされ、1415年に焚刑に処せられると、ベーメンでは1419年にフス戦争が勃発する。ハンガリー王にして神聖ローマ皇帝だったジギスムント(ヴェンツェルの弟)は十字軍を結成してフス派を撃滅せんとしたが、逆にフス派は連戦連勝を飾り、事実上フス派のボヘミア王国を実現することになる。しかし、内部分裂によってフス派の主力勢力であったターボル派が壊滅し、1431年のバーゼル公会議において、プラハ大学に与えられていた特権は剥奪されることになった。これにより、大学としてのプラハ大学はいったん終結することとなる。
大学再興プラハ大学建学式の皇帝カール4世。大司教が4つの学部の代表者の前で憲章を読み上げる。(画)ヨーゼフ・マティアス・トレンクヴァルトコレギウム・クレメンティナム ? 天文観測塔(17-18世紀)法学部棟法学部棟の吹き抜け芸術哲学部棟(1930年)芸術哲学部棟の館内物理学部棟チェコ大学閉鎖50周年集会の記念の銘板。
《今やらなくて、いつやるの?
私たちがやらなくて、誰がやるの?》
1989年11月17日社会学部棟 (1998年)

大学特権を失ったプラハ大学は神学部を中心とする人文系の小大学として存続していたが、1622年イエズス会が大学の運営に参画し1638年に至って皇帝フェルディナント3世の勅許により哲学部文学部に加え法学部医学部が復活し再興を見た。三十年戦争を何とか凌ぎながら1654年に大学名をシャルル・フェルディナンド大学と改称し、1740年にはマリア・テレジアによって大学運営からイエズス会が排除され、再び神聖ローマ帝国直属の大学となる。
19世紀における分裂

19世紀になりチェコ人が経済的に台頭してくるとチェコ人とドイツ人との対立が学内にも及び、教員や学生の間に対立を引き起こした。このため1882年にチェコ=ドイツ・シャルル・フェルディナント大学と帝国立チェコ・カレル・フェルディナンド大学の2大学に分割、これによってチェコ人の入学者が増え1910年にはドイツ系の学生が3割に対しチェコ系の学生が7割にものぼるまでに至った。


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