プラハの春
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音楽祭については「プラハの春音楽祭」を、春江一也の小説については「プラハの春 (小説)」を、同小説を原作とする宝塚歌劇団のミュージカルについては「プラハの春 (宝塚歌劇)」をご覧ください。

プラハの春プラハにて、ソ連軍の戦車が燃え上がる様子
日付1968年8月20日 - 1968年8月21日
場所チェコスロヴァキア社会主義共和国
関係者アレクサンデル・ドゥプチェク
レオニード・ブレジネフ
ワルシャワ条約機構加盟国の首脳
結果

ソ連によるチェコスロヴァキアの占領

モスクワ協定(スロバキア語版)への署名

アレクサンデル・ドゥプチェクの辞任

グスターフ・フサークが第一書記に就任し、「正常化」が始まる

1991年まで、ソ連軍がチェコスロヴァキアに駐留する

アルバニアがワルシャワ条約機構から離脱(1968年9月)

チェコスロヴァキア国民7万人が国外に亡命。避難民の人数は30万人に達した[1]

死者137人

プラハの春(プラハのはる、チェコ語: Pra?ske jaro〔プラシュスケー・ヤロ〕、スロバキア語: Pra?ska jar〔プラシュスカー・ヤール〕、ロシア語: Пражская Весна〔プラーシュスカヤ・ヴェスナ〕、英語: Prague Spring)とは、1968年チェコスロヴァキアで、アレクサンデル・ドゥプチェクの下で行われた短期間の経済的・政治的自由化[2]民主化のことを指す[3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17]

同年8月20日ソ連ワルシャワ条約機構軍を率いてチェコスロヴァキアに侵攻したことで終了した[2]
概要

1967年12月に開催されたチェコ共和国党中央委員会本会議が「プラハの春」の始原であり、1968年1月5日アレクサンデル・ドゥプチェクがチェコ共和国共産党中央委員会第一書記(チェコ語版)(1953年から1971年までは「チェコ共和国共産党中央委員会第一書記」と呼ばれた)に選出されてから本格的に始まった。ドゥプチェクによる改革は、経済における一部の地方分権化と民主化を実施し、それによってチェコスロヴァキア国民に権利を付与することを目的としていた。報道の自由や言論の自由を認め、自国民の旅行に対する制限の緩和も含まれた[1]。「プラハの春」とは、「国民にある種の自由を提供しよう」という政策であった[18]。とくに、行政権限の地方分権化に対してソ連は苦々しく思っており、チェコスロヴァキアと交渉を重ねるも失敗に終わった。

1968年8月20日の深夜、ワルシャワ条約機構に加盟していた国々で構成された軍事部隊がチェコスロヴァキア社会主義共和国の領土を越えてなだれ込んだ。ソ連が指揮し、主導したワルシャワ条約機構の軍隊が、ドゥプチェクが実施しようとした自由化の改革を阻止・鎮圧するため、チェコスロヴァキアに侵攻した[1]。この軍事侵攻の作戦名は「ドナウ作戦」(Oпера?ция ≪Дуна?й≫)と名付けられた[19]。1968年8月20日午後11時、「ドナウ作戦」が開始された[19]。ソ連軍においては、陸軍大将のイヴァン・グリゴーリエヴィチ・パヴロフスキー(ロシア語版)がこの作戦の指揮を取った[20]。ソ連はワルシャワ条約機構の50万人規模の軍隊と戦車を送り込み、チェコスロヴァキアを占領した。ソ連軍に加えて、ポーランド軍、ブルガリア軍、ハンガリー軍も侵攻に加わった[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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