プラネタリウム
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「プラネタリウム」のその他の用法については「プラネタリウム (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ドーム内部中央に設置されたプラネタリウム本体プラネタリウム施設の外観。ベラルーシミンスク

プラネタリウム(: planetarium)は、投影機から発した光をドーム状の天井の内側に設置された曲面スクリーンに映し出すことでの像およびその運動を再現する設備あるいは施設を指す。プラネタリューム、プラネタリュウム、天象儀(てんしょうぎ)ともいう。プラネタ[1][2][3][4]やプラネ[注釈 1]と略すこともある。

惑星: planetes : πλαν?τη?)に由来する言葉であるが、惑星のみならず恒星を含む星空全体とその運動を再現する。また、地球上の任意の場所・時代の星空を投影したり、曲面スクリーンに投影されることを前提に撮影された映画を上映したりするなど、様々な機能を持つ。公的な機関が天文台、あるいは、科学館博物館に併置する例がしばしば見られるが、民間企業が集客の目玉として商業施設に設置する例もある。
歴史
前史.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}アンティキティラ島の機械水星金星地球の運行を再現する小さな太陽系儀オランダのフラネカーに現存するアイゼ・アイジンガー惑星運行儀

アルキメデスは、太陽惑星の運行を再現する装置を所持していたとされる。キケロの著作によれば、紀元前1世紀ギリシャの哲学者、ポセイドニオスアンティキティラ島の機械として現在知られている機械を製作したと記述されている。この機械は太陽、その当時知られていた、水星金星地球火星木星土星の惑星運行を再現するものであったらしい。1901年にアンティキティラの沈没船(英語版)からアンティキティラ島の機械が発見されたことにより、そのような天体の運行を再現する装置は紀元前に既に存在していたことが実証された。

ヨハンネス・カンパヌス (1220-1296) はTheorica Planetarum (太陽系儀)を建設した。1348年から1364年にかけて時計師のジョバンニ・デ・ドンディはアストラリウムを製作した。近代的な太陽系儀は1704年時計師ジョージ・グラハムトーマス・トンピョンによって作られた。グラハムは自らのパトロンだった、アイルランドの第4代オーラリー伯爵の名を取って、この太陽系儀を「オーラリー」と名づけた。以降、英語圏では太陽系儀のことを「orrery」(オーラリー)と呼ぶようになる。

18世紀において、小型のオーラリーは迫力を欠いていた。18世紀末には複数の教育者達が、大型の天界を再現する装置を造った。アダム・ウォーカー(1730-1821)と彼の息子たちが製作した"Elaborate Machine" は全高12フィート、27インチ径のもので、垂直に立てられていて球体は巨大で目立っていた。その装置は説法に用いられた。

現存する最古の作動する惑星運行儀は、オランダのフラネカーに見ることができる。アイゼ・アイジンガー(1744-1828)によって彼の居室に7年の歳月をかけて製作され、1781年に完成した。

日本では江戸時代末期の1851年田中久重によって上部に天象儀を備えた万年自鳴鐘が製作された。

このような機械仕掛けで天体の運行を再現する惑星運行儀は、日本では一部の博物館に展示されている程度である。デアゴスティーニ・ジャパンから2009年01月13日から2011年01月06日にかけて通算103巻の「週刊 天体模型太陽系をつくる」が刊行されている[6]
光学式プラネタリウムの開発

世界初の近代的なプラネタリウムは、1923年ハイデルベルクのバーデン天文台の主任研究員であったマックス・ヴォルフドイツ博物館オスカル・フォン・ミラーが、天体運行の再現による説明を行うためにイェーナカール・ツァイス社に依頼し、ツァイス社の技師であったヴァルター・バウアースフェルトによって発明されたものである。「ツァイスI型」と名付けられたこの投影機は、北天用の1個の恒星球と惑星棚を備え、約4500個(おおよそ6等星まで)の投影を行うことができた。恒星原板の採用や、集光レンズを使用してドーム内に星像を投影するという現在の光学式(レンズ式)プラネタリウムの基本的原理は、この時点でほぼ完成している。この投影機はドイツ博物館に収蔵されている。

1924年にイエナのツアイス社の屋上ではじまった試写会には2か月で5万人もの人々が押し寄せ」、その後のミュンヘンでの一般公開も成功をおさめて、常設館がバルメン、ライプツィヒデュッセルドルフ、イェーナに設置された。イェーナでは、1926年 7月1日ツアイス社所有の「公妃の庭」の一角にオープン[7]
日本におけるプラネタリウムの歴史稼動しているもので日本最古(1960年6月から62年間稼働中。2012年8月29日から日本最長記録更新。)のプラネタリウム投影機(明石市立天文科学館のカール・ツァイス・イエナUPP23/3)大阪市立科学館に展示されている日本最古のプラネタリウム投影機(大阪市立科学館のカール・ツァイス・イェーナ社製「ツァイスII型」

日本で最初に設置されたプラネタリウムは、1937年大阪市立電気科学館(のちの大阪市立科学館)に設置されたカール・ツァイス・イェーナ社製「ツァイスII型」である。これは、アジアで最初に設置されたプラネタリウムでもあった[注釈 2]。同型が1938年に有楽町の東日天文館に設置されたが、1945年に戦災で焼失した。

戦後、1957年には東京・渋谷に天文博物館五島プラネタリウム[注釈 3]が、1960年には兵庫県明石市に明石市立天文科学館[注釈 4]が、1962年には名古屋市に名古屋市科学館[注釈 5]が開館した。

日本国産として最初に開発されたプラネタリウムは、1958年に、千代田光学精工(株)(のちのコニカミノルタ)が市井の発明家・信岡正典が開発したプラネタリウムを甲子園阪神パークで開催された科学博に出展。


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