『プラテー』(フランス語: Platee)は、ジャン=フィリップ・ラモーが作曲したプロローグを備えた3 幕のフランス語のオペラ(コメディ・リリック)で、リブレットはジャック・オトロー(英語版)の戯曲『プラテーあるいは嫉妬深いジュノン』(Platee, ou Junon jalouse)をアドリアン=ジョセフ・ル・ヴァロワ・ドルヴィル(Adrien-Joseph Le Valois d’Orville)が加筆修正したものによる。1745年3月31日にヴェルサイユ宮殿のラ・グランド・エキュリにて初演された。ラモーは本作にバレエ・ブフォン(Ballet Bouffon)という名をつけている[1][2]。 『プラテー』はフランスの王太子ルイ・フェルディナンの婚礼のために作曲された。古代ギリシアの作家パウサニアスの原作『ペリゲエシス』[注釈 1]を最終的な底本とするジュピテルと醜い沼の妖精との偽装結婚の物語である。婚礼にはまことに不向きな題材で、花嫁のスペイン王女マリア・テレサが明らかに魅力に乏しいことを考えれば、なおさらと思われるが、作品のこの一面は当時ほとんど論じられなかったようだ[注釈 2]。初演から4年後、バロ・ド・ソヴォ
概要
初演とその後
作品の性格的特徴ラモー
本作は、コメディ・バレエ『レ・パラダン(英語版)』(1760年)と共に、ラモーの限られた喜劇作品であるが、数年後にファヴァール(フランス語版)の名と共に出現するオペラ・コミックの諸特性は全く備えていない。これは、むしろパロディの部類に属するが、均整がとれて音楽的な質が高い点で、この種の作品としては他の追随を許さない[1]。
『ラルース世界音楽事典』によれば「この作品は2つの面でパロディ的な作品である。まず、オペラそのもののパロディ。つまり、オペラのあらゆるお決まりの表現(嵐、神々の飛翔、祈願、変身、恋愛場面、捨てられたヒロインなど)が、ひとひねりして使われている。恋する人物とスティル・ギャラン(艶美様式)のパロディ。誤りの用法(間違ったアクセント、空々しい誇張、不釣り合いな和声など)を組織的に使用することによる、音楽様式のパロディ。しかし、それと同時に、愚弄された水の精のグロテスクな役柄から、本来の悲壮感が引き出される限りにおいて、過酷な作品でもある。ラモーの同時代人の間で大いに評価された本作は、今日、この18世紀のオペラがあまりにも知名度が低いゆえに、すべての引喩を理解することは難しいとしても、その滑稽味は保持している」[1]。ジャック・オトロー
演出家のロバート・カーセン(英語版)は本作の最大の魅力について「私は常に『プラテー』に魅了されてきた。なぜなら、それが感情と辛辣な風刺とを18世紀フランス演劇の古くからの因習に基づいた独特のスタイルで融合させているからだ。因習は、例えば、どうして各々の幕が主題を持たないダンスで締めくくられるかの根拠となる。私は、バロック作品の構造を規定する形式的な原則を崇拝している。それらは我々に近代リアリズムとは対極にあるものを提示するが、それでもなおポストモダン期の芸術における形式的な崩壊との類似点を明らかにしているのだ」述べている[4]。
岸純信によれば「ジャン・ラシーヌやピエール・コルネイユの古典悲劇が世を席巻していた当時、フランスのオペラ界でも、悲劇性の高い演目に人々の興味が集中した。それゆえ、本作が持つ喜劇性は珍しいものだった[6]。「不細工ながら自惚れが強い沼の精を主人公とする喜劇的なオペラ『プラテー』では醜い沼の精プラテー役は男性歌手(高音域にファルセットを交えて歌うオートコントルという声種)が女装して演じた。その理由は喜劇的なキャラクターである醜女の役を女性にやらせることをラモーが気の毒に思ったからと伝えられている」[7]。さらに、「ドラマとしは、プラテーの迷走ぶりが我々を大いに笑わせてくれる一方で、そのあまりに純粋な心持ゆえに、我々の同情や共感を少しずつ膨らませて行く点に注目したい。劇の最後で、皆に嘲笑される彼女の姿に胸を痛めぬ人がいるだろうか」[6]。
永竹由幸は本作について「醜女の主役にとっては残酷な話だが、ジャック・オッフェンバックの『地獄のオルフェ』より100年以上も前に創られた強烈なパロディである。