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プラティーハーラ朝の版図(緑)。この王朝とともに、ラーシュトラクータ朝(オレンジ)、パーラ朝(紫)が鼎立していた。
公用語サンスクリット語
プラークリット
首都カナウジ
元首等
750年 - 780年ナーガパタ1世
800年 - 833年ナーガパタ2世
836年 - 885年ボージャ1世
1024年 - 1036年ヤシャパーラ
変遷
建国750年頃
滅亡1018年/1036年
プラティーハーラ朝(プラティーハーラちょう、英語:Pratihara dynasty)とは、8世紀後半から11世紀初頭まで、北西インドを支配したラージプートのヒンドゥー王朝(750年頃 - 1018年あるいは1036年)。首都はカナウジ。 グルジャラ族 プラティーハーラ朝は、インド北東部のパーラ朝、デカンのラーシュトラクータ朝とよく争ったが、この王朝のインド史において果たした最大の役割は、イスラーム勢力のシンド以東への進出をほぼ300年にわたって阻止し続けてきたことである、という研究者もいる。 この家系から出たナーガパタ1世
名称
概要
歴史シヴァ神とその配偶神パールヴァティーの像(9世紀から10世紀前半、プラティーハーラ朝の時代に製作)
前史に属し、6世紀中頃に出たハリチャンドラ
建国期
ナーガパタ1世の兄弟の孫にあたるヴァッツァラージャ
(在位:780年 - 800年)は、遠征軍をベンガル方面に進め、インド北東部のパーラ朝の王ダルマパーラ(英語版)(在位:780年 - 810年)と戦って、領土を東方に広げたが、デカンのラーシュトラクータ朝の王ドゥルヴァと戦って敗れた。ナーガパタ2世(在位:800年 - 833年)の時代に、王朝は勢力を挽回し、その領域を東西に拡大し、パーラ朝を破って、その保護下にあった北インドの中心都市カナウジを占領して首都としたが、ラーシュトラクータ朝のゴーヴィンダ3世と戦って敗れた[1]。 王朝を再興したのは、ナーガパタ2世の孫ボージャ1世(在位:836年 - 885年)で、カナウジで即位式をあげたのちに征服事業を開始し、北はヒマラヤ山麓、南はナルマダー川、東はベンガルのパーラ朝の領域を除いて北インドの大部分を支配した[2]。 また、ラーシュトラクータ朝にナルマダー河畔で勝利して、海上交易の拠点であり北インドの商品の西アジアへの出入り口であったグジャラートも獲得し、王朝の領土も広げた[2]。 また、一度は敗れたパーラ朝に対し、デーヴァパーラ
再興期
その息子のマヘーンドラパーラ1世(在位:885年 - 910年)の治世も、プラティーハーラ朝は繁栄が続き、父の遺した広大な版図を維持していた[2]。
当時の様子について、アラブ人旅行者マスウーディーの述べるところでは、プラティーハーラ朝はインドで最も優秀な騎兵軍を持っていたという[2]。 その後、10世紀前半、プラティーハーラ朝はラーシュトラクータ朝に攻撃され、グジャラートを失い衰退した[3]。同世紀には、ラージャスターンのチャーハマーナ朝、マールワーのパラマーラ朝やブンデールカンドのチャンデーラ朝など支配下にあった封臣(サーマンタ
衰退期