プラウダ
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、ソビエト連邦・ロシアの新聞について説明しています。その他の用法については「プラウダ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

Правда
プラウダ
種別日刊新聞
判型ブランケット
所有者 ロシア連邦共産党
編集者ボリス・コモツキー(ロシア語版)
設立1912年5月5日(公式)
政治的傾向共産主義
言語ロシア語
本社所在地 ロシア連邦
モスクワ、プラウダ通り24丁目
発行数100,300 (2013年)
ISSN0233-4275
ウェブサイト ⇒プラウダの公式サイト

プラウダ、またはプラヴダ(ロシア語: Правда プラーヴダ、英語: Pravda)は、ロシア連邦新聞、またそれを発行する出版社(新聞社)。かつてのソビエト連邦共産党機関紙で、1912年4月22日ユリウス暦グレゴリオ暦では5月5日)に発刊された。プラウダとはロシア語で「真実」「正義」の意である。
概要1941年7月3日のプラウダ:題「ラジオ演説を行うソ連国家防衛委員会議長、同志スターリンプラウダを読むレフ・カーメネフ

最盛期の発行部数は1,500万部を超えたといわれ[1]、世界一の発行部数を誇ったこともあった。なお最盛期の発行部数ではコムソモールの機関誌であったコムソモリスカヤ・プラウダやモスクワの週刊新聞である論拠と事実など、これを上回る新聞もあった[1]ソビエト連邦の崩壊後は発行部数を大きく減らし、日によっては4面しかないこともあったが、2000年代初頭においてロシアで第2位の発行部数があった。

ソ連時代は、政府機関紙のイズベスチヤと同じく国民に対するプロパガンダ紙であり、無味乾燥な発表報道とスローガンばかりで、広告や写真の少ない新聞であった。ソビエト連邦共産党にとって都合の悪い事は書かれず、時には事実がねじ曲げられて伝えられ、捏造も行われた。多くの国民もそのようなことはわかっていたので行間を読む、裏を読むといったことで真実を探ろうとした。そのような状況から「ソ連の二大新聞、プラウダとイズベスチヤの違いは何か?――プラウダにイズベスチヤ(ニュース)はなく、イズベスチヤにプラウダ(真実)はない」というような小咄(アネクドート)も生まれた。

現在ではロシアにおけるタブロイド型の新聞として人気を集めている。旧プラウダ紙のスタッフによって運営されているニュースサイト ⇒プラウダ・オンラインも存在するが、これと現在印刷されているプラウダ紙の間に直接の関係はない。なお、「プラウダ」と呼ばれる新聞は他にもいくつかあり、有名なものとして、かつてコムソモールの機関誌であり、現在ロシアで最も部数の多いタブロイド新聞となっているコムソモリスカヤ・プラウダなどが挙げられる。

2000年代初頭にはUFO超常現象陰謀論などを扱うようになった。たとえば超常現象研究家のコンノケンイチはプラウダのサイトに載った「地球外文明によってつくられた月面都市」の記事を著書『UFOとアポロ疑惑 月面異星人基地の謎』で引用している。
起源
ロシア革命以前のプラウダ

プラウダが発行されたのはカール・マルクスの生誕記念日である1912年5月5日というのが公式の見解である。しかし実際の起源は1903年にまで遡る。裕福な鉄道技師ウラジーミル・コジェフニコフ(ロシア語版)によってモスクワで設立され、1905年のロシア革命の最中に出版を開始した[2]

プラウダの黎明期は政治的な方向性を持っておらず、コジェフニコフは芸術、文学、社会生活の雑誌として始めていたが、すぐにプラウダの「社会生活」雑誌への積極的な寄稿者だった若手作家たち(アレクサンドル・ボグダーノフ、N・A・ロジコフ、ミハイル・ポクロフスキー、イヴァン・スクヴォルツォーフ=ステパーノフ(英語版)、P・P・ルミャーンツェフ、M・G・ルンツ等)によるチームが形作られた。その後、彼らは雑誌の編集委員となり、後にはロシア社会民主労働党ボリシェヴィキの主要なメンバーとなっていた[2]

しかしコジェフニコフと、ボリシェヴィキ主要メンバーでもある編集委員との間に争いが生まれ、ついにはコジェフニコフがプラウダから去ること求めて来たのでこれを受託し、社会民主労働党のメンシェヴィキが編集委員会を引き継いだ。これがプラウダとコジェフニコフとの間に禍根を残すことになる[2]

1912年1月にプラハで開催されていた社会民主労働党の第6回党会議で、遂にメンシェヴィキが党から追放された。党の主導権を握ったウラジーミル・レーニンは明確にプラウダを公式の代弁者とした。書類をウィーンからサンクトペテルブルクに移すと同時に1912年5月5日(ユリウス暦1912年4月22日)にレーニン主導により4ページで5コペイカの創刊号が発表された[3]。このとき初めてプラウダが法的にも政治新聞として発行された。社会民主労働党の中央委員会、労働者や個人などと共にマクシム・ゴーリキーは新聞に資金援助をした。これには経済問題、労働運動、ストライキに関する記事があり、プロレタリアートの詩が2作載っていた。サンクトペテルブルク・プラウダの最初の編集者であるマクシム・イェゴーロフとドゥーマの議員であるニコライ・ポレターエフ(ロシア語版)が版元として務めた[4]
2月革命1917年3月16日:ポーランドの独立宣言を報じるプラウダ。

1917年の2月革命によるニコライ2世の退位によって、プラウダは発行を再開した。新しく生まれ変わったプラウダの最初の編集者であるヴャチェスラフ・モロトフとアレクサンドル・シュリャープニコフ(英語版)は、自由主義的なロシア臨時政府に反対した。3月12日にシベリアへの流刑から戻って来たレフ・カーメネフヨシフ・スターリンに加え、マトヴェイ・ムラノフ(英語版)らは3月15日に編集委員会を引き継いだ[5]

1917年3月15日、戦争への努力を支持する記事を載せた。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}軍隊と軍隊とが対峙しているときに、武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。これは平和政策などではなく、自由人民たちを苛立たせ拒絶させる、奴隷政策だ。When army faces army, it would be the most insane policy to suggest to one of those armies to lay down its arms and go home. This would not be a policy of peace, but a policy of slavery, which would be rejected with disgust by a free people.[6]

4月3日に、ロシア帝国に帰国したレーニンとグリゴリー・ジノヴィエフ4月テーゼで、臨時政府との統一的な傾向を強く非難した。カーメネフはプラウダの社説でレーニンの立場に反対したが、レーニンは再度プラウダで「反革命」として臨時政府を非難することによって4月党大会では好評を得ることに成功した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef