プファルツ=ツヴァイブリュッケン公国(Herzogtum Pfalz-Zweibrucken)は、神聖ローマ帝国の帝国直属身分の領邦。首都はツヴァイブリュッケン。プファルツ=ツヴァイブリュッケン侯領(Furstentum Pfalz-Zweibrucken)、ツヴァイブリュッケン宮中伯領(Pfalzgrafschaft Zweibrucken)と呼ばれることもある。15世紀中葉に成立し、1801年に消滅するまでヴィッテルスバッハ家のプファルツ選帝侯系の支族によって統治された。14世紀末に統治者家門の絶えたツヴァイブリュッケン伯領(Grafschaft Zweibrucken)と領域的に重複する形で存在していたが、ツヴァイブリュッケンの公爵たちと以前のツヴァイブリュッケン伯家との間には血統上の結びつきや称号の継承関係はなかった。 公国の形成は1444年に構想され、1453年ないし1459年に実現した。1444年、プファルツ=ジンメルン公世子フリードリヒ1世とその弟のルートヴィヒ1世は、母方の祖父であるフェルデンツ伯フリードリヒ3世から遺領を相続した。フリードリヒ1世が祖父の遺産のうちシュポンハイム伯領(Grafschaft Sponheim
目次
1 形成と発展
1.1 規模
1.2 行政
1.3 宗教
2 ツヴァイブリュッケン公(1394年 - 1797年)
3 参考文献
4 外部リンク
形成と発展
1543年から1694年までは、分家のプファルツ=フェルデンツ公爵家が存在し、ヴォージュ山脈北部のリュッツェンシュタイン(現在のフランス領バ=ラン県ラ・プチ=ピエール)に本拠を置いていた。フェルデンツ公爵家の断絶後、その領地はツヴァイブリュッケン公国に回収された。
また、ツヴァイブリュッケン公爵家は16世紀にスウェーデン王家であるヴァーサ家と緊密な姻戚関係を築き、1681年から1718年まではスウェーデンと人的同君連合関係にあった(プファルツ王朝)。
当初はマイゼンハイムが公爵の本拠だったが、1477年にツヴァイブリュッケンが公国の首都と定められてからは、同市が1793年まで首都の地位を保った。公爵の居城は最初はバウテン城(現在は破壊されている)だったが、1725年にはツヴァイブリュッケン宮殿(Schloss Zweibrucken)に移り、最終的には1788年にホンブルク(Homburg)郊外のカールスベルク宮殿(Schloss Karlsberg)に代わった。カールスベルク宮殿は、カール・アウグスト・クリスティアンが、バイエルン選帝侯の推定相続人となった自身の地位に見合う居城を所有することを要求して、建設させたものであった。ツヴァイブリュッケン公爵家の墓所は、最初はマイセンハイムの城内教会(Schlosskirche)、後にツヴァイブリュッケンのアレクサンダー教会(Alexanderskirche)とされた。 プファルツ=ツヴァイブリュッケン公が代官を置いていたのは、1444年の成立時には、フェルデンツ伯領に属するアルムスハイム(Armsheim 公爵が強い法的制限をしいていたため、公国の領域には領民の訴えを聞く機関は一つも存在しなかった。1571年4月21日、ヨハン1世は、公国の都市部に居住する住民の農奴身分を廃止した。農奴身分に対する締め付けの緩和は、ツヴァイブリュッケン市では1352年と1483年の布告によって徐々に進められていた。農奴制廃止に伴い、公国の若い成年男子には公国の軍隊での6年間の兵役を課せられた。 公国の行政区分は、最終的にはツヴァイブリュッケン、ホンブルク、リヒテンベルク、マイセンハイム、トラーバッハ、カステルラウン、ベルクツァーベルンおよびグッテンベルクの8つに設定され、またそれと同時に、公爵の直轄領も5つの地域に分けられていた。 公国の行政の最高機関は「Kabinettskollegium」であり、これは公爵も臨席する評議会だった。
規模
行政