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出典検索?: "プファルツ=ジンメルン家"
公用語ドイツ語
首都ジンメルン
元首等
1459年 - 1480年フリードリヒ1世
1680年 - 1685年カール2世
変遷
プファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケンの分割により成立1459年
フリードリヒ3世がプファルツ選帝侯となる1559年
プファルツ=ジンメルン家の断絶1685年
プファルツ=ジンメルン家(Pfalz-Simmern)は、プファルツ系ヴィッテルスバッハ家の流れの一つ。三十年戦争及びその前後の時代、ドイツのみならずチェコ、イギリス、オランダの歴史に重要な関わりを持った。
歴史1648年のジンメルン城、メーリアンによる版画
ローマ王にも選ばれたプファルツ選帝侯ループレヒト3世が1410年に死去すると、プファルツ系ヴィッテルスバッハ家は早世した長男を除く4人の息子それぞれの系統に分かれた。その一つがジンメルン(現ラインラント=プファルツ州ライン=フンスリュック郡の都市)に拠点を置いた、ループレヒトの四男シュテファンに始まるプファルツ=ジンメルン系であった(プファルツ選帝侯は次兄ルートヴィヒ3世が継ぎ、三兄ヨハンはプファルツ=ノイマルクト公、弟オットー1世はプファルツ=モスバッハ公となった)[1]。
シュテファンの玄孫フリードリヒ3世以降はこの系統がプファルツ選帝侯を継承した。
フリードリヒ3世の曾孫フリードリヒ5世はプロテスタント諸侯の盟主としてハプスブルク家と対立し、同家に代わってボヘミア王位に即いたが、これが発端となって三十年戦争が勃発した。フリードリヒ5世はボヘミア王位だけでなくプファルツの本領も奪われてオランダ共和国へ亡命を余儀なくされたが、さらに選帝侯位も剥奪され、代わってバイエルン系ヴィッテルスバッハ家のマクシミリアン1世が選帝侯となった。後にヴェストファーレン条約によって、息子カール1世ルートヴィヒは旧領の多くを回復し、選帝侯位を新たに認められた。