プファルツ略奪
ハイデルベルク城趾、2006年撮影。
戦争:大同盟戦争
年月日:1688年9月 - 1689年
場所:神聖ローマ帝国、プファルツ選帝侯領
結果:フランスの軍事的勝利、政治的敗北
交戦勢力
フランス王国 神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領
指導者・指揮官
ルーヴォワ侯爵
大同盟戦争
リスト
大陸ヨーロッパ
フィリップスブルク - プファルツ
プファルツ略奪(プファルツりゃくだつ、フランス語: Sac du Palatinat)、または第二次プファルツ略奪(だいにじプファルツりゃくだつ、フランス語: Second ravage du Palatinat)[1]は1689年にフランス王国により行われた、神聖ローマ帝国南西部の計画的な破壊。
1689年春、フランス王ルイ14世は陸軍大臣のルーヴォワ侯爵に押されて、「ライン川の守備」を保障するためにプファルツを略奪するよう命じた。この決断はルイ14世最大の戦略ミスとされ、プファルツが略奪されたことでほとんどのドイツ諸侯は帝国に味方、ヨーロッパにおける反仏同盟がさらに強化されるという結果をもたらした。 17世紀の戦争において軍隊が占領地で資源を徴収することは多かった。これは軍の維持と補給に要する支出を減らすほか、占領地が取り戻される場合でも敵軍がその資源を使えないという利点もあった。[2]。その中でプファルツ略奪が特筆に値するのは、その攻撃の影響を受ける領域が広かったためだった[3]。 紛争が開始した時点ではフランスは神聖ローマ帝国にしか宣戦布告しておらず、また敵軍によるアルザス攻撃および全面戦争への拡大を避けようとした[4]。そのため、ルイ14世は素早く強力にプファルツに打撃を与えた[5]。1688年9月、フランスのライン川方面軍は宣戦布告をしないまま進軍[6]、プファルツ地域のうちライン川左岸の山を通過してバーデン辺境伯領に雪崩れ込み、11月10日にハイルブロン、ハイデルベルク、マンハイムを相次いで屈服させ、フィリップスブルク
目次
1 背景
1.1 17世紀の戦争における略奪
1.2 フランスと神聖ローマ帝国の紛争
2 経過
3 影響
4 脚注
5 参考文献
背景
17世紀の戦争における略奪
フランスと神聖ローマ帝国の紛争
経過(英語版)はジョゼフ・ド・モンクラル(英語版)元帥の命令を受けてハイルブロンに駐留した。