プトゥン人
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プトゥン人のユカタン半島海岸沿いの交易ルート、特産品、古典期終末から後古典期の主なマヤの祭祀センターカカシュトラ、構築物B西側傾斜壁(talud)の壁画。「3の鹿角」(左から2番目の人物)率いるジャガー「クラン」が鳥「クラン」を打ち負かしている様子を描く。中央の白いマントを着ているのは、胸と背にV字状になるケチケミトル(quechquemitl)とスカート(ふんどし状の腰布ではない)を付けて、手首を交差させていることから、敗北した鳥「クラン」の女性で捕虜になっている。この女性はつま先を外側にして立ち、顔を横に向けている。セイバル石碑11号。古典期終末期のセイバル王アフ・ボロン・ハーブタル(ワトゥル)の立像。つま先を外側にして立ち、顔を横に向けている。

プトゥン人(プトゥンじん、チョンタル人、チョンタル・マヤ)とは、主に後古典期メソアメリカにおいて、カンペチェ湾岸地方に住むチョンタル語を話す遠距離交易商人として知られていた人々のことをいう。ジェフ・コワルスキー(J.K.Kowalski)は、もっと具体的にメキシコタバスコ州のチョンタルパ地方およびカンペチェ州北西部のカンデラリア川流域に住むチョンタル語を話す[1]組織化された遠距離交易商人としている。プトゥンという語は、ユカテコ語で、「プトゥンの言葉」という意味の「プトゥン・ザン(Putun than)」に由来し、タバスコ州のアカラン地方に住むチョンタル語を話す人々のことを指していた。アカランとは、ナワトル語で「カヌーのある場所」という意味で、具体的にはカンデラリア川の上流に沿った地域を指し、プトゥン人の政治的な力が最も強かったことで知られていた。アカラン地方のプトゥン人は、自分たちの住んでいる場所をタマクトゥンと呼び、「マクトゥンの男たち」ないし「マクトゥンの人々」という意味のアマクトゥンないしマクトゥン・ウニコブと自称していた。

プトゥン人は、メキシコ湾岸、テルミノス湖の西端にある重要な交易港であったシカランゴ(英語版)から、カンペチェ州南部、ユカタン半島を海岸沿いにめぐって、コスメル島を経由して南下し、イサバル湖の近くにある交易で繁栄した町ニトに至り、ホンジュラスのスーラ平原にまで至るまでの海上交易路を用いて繁栄した。その一方で、メキシコ湾岸からユカタン半島を横切る陸路や河川を用いた交易路でマヤ地域と他のメソアメリカ地域を結び付ける役割も果たす商人集団もいた。

プトゥン人がユカタン半島周辺のみならず、メキシコ中央高原にまで進出していた証拠として、マイケル・コウは、カカシュトラの壁画を挙げる。カカシュトラは、アステカ人によってシカランゴを本拠とする「オルメカ・シカランカ」もしくは「歴史的オルメカ人」と呼ばれた人々による祭祀センターであるとされており、その壁画には、マヤ的な服装で、儀仗をもつ人物が描かれ、コウによるとセイバルの石碑の人物像と図像的に同じ様式である[2]、とする。
後古典期のメキシコ湾岸にあったプトゥン人の町々

アカラン地方には、76か所に及ぶ町や村落があったとされ、16世紀ごろに繁栄していたのは、当時アカラン地方の首府というべき町イツァムカナックという町であり、パクスボロナチャと呼ばれる王がいたとされる。イツァムカナックの支配階層をなす一族、すなわち「パクスボロナチャの兄弟たち」は、アカラン商人たちの長距離交易を支配することによって富と権威を得ていた。イツァムカナックは、4つに区分されて、パクスボロナチャの部下である4人の長官がそれぞれに割り当てられた区画を支配していて、900から1000か所に及ぶ漆喰の施された石造りの家々があった。その家々の大部分には複数の家族が暮らしていたことが伝えられている。アカラン地方の町々の最高位の支配者ないし首長や町を区分したその区の指導者[3]は、「主君」ないし「支配者」という意味のアハウという称号によって知られ、彼らは、マヤ語とナワ語の両方に由来する個人の名前も持っていた。

しかし実際のところは、そういった町や村の正確な位置は一部を除いてよくわかっておらず、考古学的な一般調査によって、大規模な遺跡が10か所弱あることがようやく確認されている状況である。そのような調査の結果、多くの研究者がイツァムカナックであろうと推察するに到ったのは、高さ20mを超えるピラミッド状の構築物、いくつかの基壇状の構築物のほか球戯場と思われる遺構をもち、13平方キロを超える規模を持つエル・ティグレという遺跡である。

チョンタルパ地方では、グリハルバ川の河口付近に「プトゥン人の蛇」という意味の名をもつポトンチャンという町があった。

タバスコ州にあるTixchelの遺跡は、16世紀後半に、プトゥン人がもどってきたときに彼らの信仰していた月の女神であるとともに、洪水、多産、織物、医療の神である女神イシュチェルにちなんでその名で呼ばれるようになった。スペインによる征服以前には、征服後の二倍の人口があったことがわかっている。タバスコ州のプトゥン人の住んでいた町々には、ナワ語やソケ語を話す人々も住んでおりお互いに交流もあった。交易相手となるだけでなく、プトゥン人の個人名にナワ語由来のものが見られたり、ナワ語の暦にある日の名前に当たるものも珍しくないように、結婚も行われていたようである。
後古典期のユカタン半島とコスメル島

プトゥン人たちのユカタン半島北部における交易路の結節点は後古典期前期(13世紀まで)はチチェン・イッツァコスメル島であった。コスメル島は、海上交易の中継地としては便利であったが、標高が低く、長期の降雨があったり、ハリケーンに襲われると水没するような地形であるため、プトゥン人たちは、商品の集積所として石灰岩の荒石積みの「水塚[4]を島内北部に6か所、南部に最大規模のものとして知られるブエナ・ヴィスタの「水塚」を築いた。ヴェナ・ヴィスタの「水塚」は、平均5mの高さに達し、複数の「水塚」がつなぎあわされ、面積は7haを超えるものであった[5]。これらの「水塚」は、搬送路として石灰岩の敷石で葺かれた「提道」で結ばれていた。また外部の侵略者を警戒し、のろしを上げたりするための防御施設が20か所以上築かれ、現在は14か所残されている[6]。サブロフは、13世紀になって、チチェン・イッツァが放棄されると、プトゥン人たちは、チチェン・イッツァの中心部の建物を小規模にして建設したマヤパンが建設して、チチェン・イッツァの代わりに交易路の結節点としての役割を担わせたとする[7]が、マイケル・コウは、1200年ごろ、カンペチェ湾岸のチャンポトン(チャカンプトゥン)を追われたイツァ族が、ペテン・イツァ湖をへて、現ベリーズ領内のユカタン半島東岸に至り、東海岸沿いを北上して、半島北部に至ると横切るように西進して、当時ウウキル・アブナルと呼ばれていたチチェン・イッツァに至ったのがカトゥン4アハウ[8]1224年 - 1244年)であり、彼らはイシュチェル信仰の儀式を創始し、コスメル島に祠堂が築いたとする。


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