プッシュマタハ郡_(オクラホマ州)
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オクラホマ州プッシュマタハ郡
郡のオクラホマ州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1907年
郡庁所在地アントラーズ
面積
 - 総面積
 - 陸
 - 水
3,686 km2 (1,423 mi2)
3,618 km2 (1,397 mi2)
65 km2 (25 mi2), 1.79%
人口
 - (2000年)
 - 密度
11,667人
3人/km2 (8人/mi2)
標準時中部: UTC-6/-5

プッシュマタハ郡(: Pushmataha County)は、アメリカ合衆国オクラホマ州の南東部に位置するである。2010年国勢調査での人口は11,572人であり、2000年の11,667人から0.8%減少した[1]郡庁所在地はアントラーズ市(人口2,453人[2])であり[3]、同郡で人口最大の都市でもある。
歴史
管轄の歴史

1000年-1500年頃: カドー族ミシシッピ文明、スピロマウンド

1492年-1718: スペイン

1718年-1763年: フランス

1763年-1800年: スペイン

1800年-1803年: フランス

1803年?現在: アメリカ合衆国

1824年-1825年:
アーカンソー準州ミラー郡(現在の郡域東部)

1825年-1907年: インディアン準州チョクトー族

1907年-現在: オクラホマ州[4]

プッシュマタハ酋長、1824年
前史と探検の時代

前史時代、後にプッシュマタハ郡となった地域は、フーシェ・マリン文化の中期ウッドランド時代にあたった。時が移って北東のミシシッピ文化に接し、カドー族ミシシッピ文化に移った。その遺跡の中でもスピロ市に近いスピロ・マウンドが有名であり、その交易範囲はキアミチ川やリトル川の流域にまで及んでいた[5]

北アメリカの歴史は、1492年にクリストファー・コロンブスが指揮するヨーロッパ人が到着して変わり始めた。その後の時代にヨーロッパ人探検家が、名声、宝物および所属する帝国のために地域の征服を求めて北アメリカの内陸深く入ってきた。スピロ・マウンドやキアミチ川流域などカドー族ミシシッピ文化の範囲を示す地図

1719年にフランス人ベルナール・ド・ラ・ハルプが現在のプッシュマタハ郡となった地域を探検した。その前年にニューオーリンズの町が設立されており、フランスはラ・ハルプの探検で、先住民との交易を求めてミシシッピ川流域に帝国の力を及ぼし、さらにはニューメキシコに至る道を探した[6]

現在のプッシュマタハ郡を含む地域は、1803年のルイジアナ買収により、アメリカ合衆国の領土になった。

地域内に最初に足を踏み入れたアメリカ人探検家は1817年のスティーブン・H・ロングだった。1819年には科学者のトマス・ナットールが続いた。二人ともキアミチ川流域を探検しており、ナットールは詳細な記録を残した[7]

1819年、アメリカ合衆国はスペイン帝国アダムズ=オニス条約を結び、レッド川が国境になった。アメリカ合衆国の政策として、スペインの侵略からフロンティアを守り、インディアンの暴力に対しても地域を確保することが重要だったので、その南側国境に沿って一連の砦を構築した[8]

ゲイツ・クリークとキアミチ川の合流点に設立されたタウソン砦は、レッド川に注ぐ地点の直ぐ上流にあたり、現在のプッシュマタハ郡全体が入る領域を守ることを任務とされた。そこは荒野の真っ只中にあったので、物資を補給するために、アメリカ陸軍工兵司令部はタウソン砦と現在のアーカンソー州フォートスミスとを繋ぐ軍事道路を建設した。その経路は、リトル川流域を通っており、現在の郡域では初の現代的道路となった。南北戦争後にタウソン砦が放棄され、この道路は使われなくなった。道路の痕跡は現在でも確認できる[9]
インディアン準州

オクラホマが州に昇格する以前、インディアン準州の中でチョクトー族が主権国家としてこの地域に存在していた。
政治組織

チョクトー族の領土は現在のプッシュマタハ郡全体に及んでおり、プッシュマタハとアプクシュヌビーと呼ばれる管轄区域に分かれていた。これら区域のそれぞれがさらに郡に小分割された。現在のプッシュマタハ郡はシーダー郡、ナショバ郡およびアプクシュヌビー地域のウェイド郡、さらにはプッシュマタハ地域のジャックスフォーク郡とキアミティア郡の中に入っていた[10]
合衆国との戦争

南北戦争のとき、連邦軍(北軍)はインディアン準州から撤退し、チョクトー族はアメリカ連合国南軍)と同盟を結んだ。チョクトー族政府は、アメリカ連合国首都バージニア州リッチモンドで開催されたアメリカ連合国議会に代表を派遣し、南軍に参加させるために戦士の大隊を立ち上げた。ピーター・ピッチリン、南北戦争時のチョクトー族大酋長

現在のプッシュマタハ郡内では戦闘がおこったという記録が無いが、現在のマカレスター郊外ではペリービルの戦い、現在のアトカ郊外ではミドルボギー貯蔵庫の戦いが起こった。チョクトー族の多くの者が故郷を離れて大隊に加わり、アーカンソー州でのピーリッジの戦いに参戦し、チェロキー族の領土でおきたハニースプリングスの戦いでは、チェロキー族の北軍派と戦った。

当時の記録ではキアミチ川流域で多くの避難民があったとされている。戦争自体は最後の南軍であるチェロキー族のスタンド・ワティー将軍の部隊が1865年6月にタウソン砦で降伏した時に終わった。それはロバート・E・リー将軍の北バージニア軍が降伏して、事実上南軍に勝ち目が無くなってから2ヶ月後のことだった。ウォレス・ウィリスが作曲したニグロスピリチュアルの「スイングロー・スイートチャリオット」

1862年以前のある時点で、黒人奴隷のウォレス・ウィリスがニグロスピリチュアルの「スイングロー・スイートチャリオット」を作曲していた。ウィリスはスペンサービルにあるチョクトー族の寄宿学校、スペンサー・アカデミーで働きながらこの作品を作った。この学校と昔のスペンサービルの場所は現在のプッシュマタハ郡南側境界から1,000ヤード (900 m) 足らずにあり、ウィリスがプッシュマタハ郡に住んだ可能性がある。ウィリスは現在のアトカ郡内で死に、無碑銘の墓に埋葬されている。
荒野を抜ける鉄道

チョクトー族は定住性の民だった。その生活は農場と小さな地所に結び付けられていた。チョクトー族は如何なる種類の工業も行わなかった。その領土が現在のプッシュマタハ郡だった結果、この地域に移ってきてからも長い間原始の荒野が残っていた。

1880年代にセントルイス・アンド・サンフランシスコ鉄道、通称フリスコがフォートスミスからテキサス州パリスまで通って、事情が変わった。数マイル毎に駅が建設され、土地の開拓と鉄道の運行双方に貢献した。

フリスコの路線はキアミチ川流域を下ってアルビオンの近くで郡内に入り、アントラーズで川を離れてそこの巨大な崖を回りこむものだった。1887年の地図、新しく開通したフリスコ鉄道が見られる。その開通によって原始の荒野で大々的な製材業が始まり、鉄道に沿ったチョクトー族の領土への移民が始まった

鉄道が文明をもたらし、コンクリートが外部世界とを繋いだ。鉄道によって電信も運ばれ、外部のニュースも即座に伝わるようになった。


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