プジョー・スポール (Peugeot Sport) は、フランスの自動車メーカー、プジョーのモータースポーツ担当部門。1981年に創設され、F1を除く参戦したカテゴリ全てで優勝を果たしてきた。
2010年代はダカール・ラリーと世界ラリークロス選手権で活動してきた。2022年よりFIA 世界耐久選手権(WEC)へル・マン・ハイパーカー(LMH)を用いて参戦している。またカスタマー向けにグループRallyやTCR規定車両の開発・販売も行っている。
経営上の合理化を目的に、同じPSAグループのシトロエン・レーシングやDSパフォーマンスと本拠地・予算の統合がされている[1]。
ラリー
グループBユハ・カンクネンがドライブするプジョー・205ターボ16、1986年のラリー・サンレモ。
プジョー・スポールは、かつて世界ラリー選手権(WRC)でコ・ドライバーを務めていたジャン・トッドがプジョーからPSA・プジョーシトロエングループのためのスポーツ部門を創設して欲しいと頼まれ、1981年にプジョー・タルボ・スポール (Peugeot Talbot Sport) の名称で創設された。
WRCのトップが主にグループ4車両で争われていた1980年代初期、グループ会社のタルボのサンバ(プジョー・104ベースのFR駆動の小型ハッチバック)をグループ4規定のラリー仕様に仕立てた「タルボ・サンバ・ラリー」で参戦していた。
ラリーチームはブローニュの森近くに設立され[2]、1984年にプジョー・205ターボ16でグループB規定デビュー、フィンランドでアリ・バタネンが初優勝を遂げた。1985年、プジョーはバタネンとティモ・サロネンの手で12戦中7勝を挙げ、マニファクチャラーズタイトルおよびサロネンがドライバーズタイトルを獲得した。バタネンは1985年のアルゼンチンで重傷を負い、1986年は彼に代わってユハ・カンクネンが加入した。カンクネンはチームに2年連続のタイトルをもたらした。FIAはヘンリ・トイヴォネンの死亡事故を受けて1987年にグループBを廃止した。
その後、プジョー・タルボ・スポールの手によって1984年のWRC、ツール・ド・コルスにて 205 T16(E1)がデビューし、初戦で2位を獲得。その後も強豪ひしめく群雄割拠のグループBの中でも、ランチア・ラリー037、アウディ・クワトロ、ランチア・デルタS4といった強敵に互角以上に打ち勝ち、数戦後には更に戦闘力を高めた改良型 205 T16 E2 を投入する磐石のシーズン運びを見せ、結果1985年と1986年の2年連続でドライバー(1985年:ティモ・サロネン、1986年:ユハ・カンクネン)とマニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得するに至った。
登場当時、覇を誇っていたフロントエンジン4WD車・アウディ・クワトロの牙城を崩し、ミッドシップ4WD車のWRCにおける優位性を確立した。のちに、同様のコンセプト及び駆動系などのレイアウトを、各メーカー毎の解釈に基づき製作されたランチア・デルタS4、MG・メトロ6R4、フォード・RS200などが続々と発表、実戦投入され、レイアウトはそのままにショートホイールベース化され、更に過激な進化を遂げたアウディ・スポーツ・クワトロ等と共に、グループB最終年となる1986年までラリー・コンペティションの歴史に残るパワー戦争を繰り広げた。
また205は、全日本ラリー選手権に当時のインポーターであったARJ(オースチン・ローバー・ジャパン)のサポートにより参戦した。ライバルの通称・ハチロクと呼ばれるAE86型レビン / トレノと名バトルを繰り広げた。なお、同選手権に左ハンドル車として初めてエントリーしたマシンである。
その後、1990年代前半はプジョー・タルボ・スポールが活動の主軸をグループCカーやF1に移したため、205・306・106のグループA車両でのラリー活動を比較的小規模で行っていた。
ワールドラリーカーマーカス・グロンホルムがドライブするプジョー・206 WRC、2001年のラリー・フィンランド。
1990年代後半からは、WRCやフランス・ラリー選手権に新設されたF2クラス(2000cc以下の2ボックスFF車による競技クラス)に主に306 キットカーで参戦。ここで好成績をあげたことが、WRC復帰への弾みとなった。またフランス・ラリー選手権では同じPSAグループのシトロエン・クサラ キットカーやルノー・クリオ MAXI / メガーヌ MAXI等と激戦を繰り広げた。ちなみに、1600ccエンジンの106 キットカーも数戦ではあるがWRCに参戦している。
1999年、プジョー・スポールはWRカー規定のプジョー・206 WRCと共に、コラード・プロベラの監督下世界ラリー選手権に復帰した。デビュー戦はツール・ド・コルス、フランソワ・デルクールが第一ドライバー、ジル・パニッツィとマーカス・グロンホルムがセカンドカーをシェアした。パニッツィはサンレモ・ラリーで2位に入賞、グロンホルムはラリー・フィンランドで4位に入った。206はターマックで特に速さを見せた。
2000年、グロンホルムはラリー・スウェーデンで初勝利を遂げた。その後もニュージーランド、フィンランド、オーストラリアで勝利、ドライバーズタイトルを獲得した。パニッツィはコルシカとサンレモで勝利し、マニファクチャラーズタイトルに寄与した。
2001年、デルクールに代わってディディエ・オリオールがチームに加入、グロンホルムと共にメインドライバーとなった。また、パニッツィとハリ・ロバンペラはセカンドカーを選択されたイベントでドライブした。グロンホルムは前半戦、多くのリタイヤに苦しむ一方、ロバンペラは第2戦のスウェーデンで勝利した。オリオールはスペインで勝利し、グロンホルムはフィンランド、オーストラリア、イギリスで勝利、パニッツィはイタリアで勝利した。チームはマニファクチャラーズタイトルを連覇し、グロンホルムはランキング4位に入り、これがチーム内最上位であった。ロバンペラは5位、オリオールは8位、パニッツィは9位であった。
2002年、チームは前年度チャンピオンのリチャード・バーンズをスバルから獲得、オリオールに代えて加入させた。グロンホルムは第2戦のスウェーデンで勝利、パニッツィはフランスとスペインで勝利した。グロンホルムはキプロスで勝利したが、続くアルゼンチンではバーンズと共に技術的な違反のため失格となった。グロンホルムは再びフィンランドで勝利したが、パニッツィはイタリアでシーズン3勝目を挙げた。その後グロンホルムはニュージーランドとオーストラリアで連勝し、2度目のドライバーズタイトルを獲得した。バーンズはシーズンを5位で終え、パニッツィは6位、ロバンペラは7位であった。プジョーはマニファクチャラーズタイトルを三連覇した。マーカス・グロンホルムがドライブするプジョー・307、2004年のラリー・モンテカルロ。
マールボロがタイトルスポンサーとなり、ドライバーラインアップは2003年も維持された。グロンホルムは再びスウェーデンで勝利し、ニュージーランド、アルゼンチンでも勝利した。パニッツィはスペインで勝利した。バーンズは2004年にスバルへの復帰が決まっていたが、最終戦のイギリスに向かう途中に失神、ラリーを欠場した。