ブー・サイード朝
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ブーサイード家
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王家
紋章
オマーン帝国
オマーン
ザンジバル王国
当主称号スルターン
・オマーン国王
・ザンジバル国王
イマーム
創設1744年
家祖アフマド・ビン・サイード
最後の当主ジャムシッド・ビン・アブドゥッラー (ザンジバル)
現当主ハイサム・ビン・ターリク・アール=サイード
滅亡1964年1月12日(ザンジバル:ザンジバル革命)
民族アラブ人
分家ザンジバル=ブーサイード家
オマーン王国の国章

ブーサイード朝(アラビア語: ?? ?? ????‎)は、18世紀からオマーンを統治する王朝。過去にはザンジバルなどの東アフリカの沿岸地域を支配していたが、1964年ザンジバル革命でアフリカの政権は消滅した。

この項目では主に王朝の創始から1970年カーブース・ビン・サイードの即位までの歴史について記述する。
歴史
王朝の創始

王朝を創始したブーサイード族は、オマーンの主要部族であるアズド族の流れを汲む[1]

オマーンでは17世紀初頭にヤアーリバ朝が建国され、ヤアーリバ朝の支配は東アフリカ沿岸のザンジバル、モンバサに及んでいた。1720年頃にオマーン本土で起きた内乱によってヤアーリバ朝は衰退し、在地のオマーン人が勢力を増した東アフリカ沿岸部の都市は統制が行き届かなくなっていた[2]。ヤアーリバ朝の内乱はイランアフシャール朝の介入を招き、1737年にアフシャール朝の君主ナーディル・シャーによってマスカットなどの都市が占領される。ソハール(スハール)の防衛にあたっていたブーサイード族のアフマド・ビン・サイードはイラン軍を撃退し、戦後アフマドは政治的影響力を高めていった[3]。アハマドはイバード派イマーム(宗教指導者)となり王朝を創始するが[4]、即位の時期は史料によって異なる[5]

アハマドの死後に彼の子の一人であるサイード・ビン・アフマドがイマームに就任し、サイードの子ハマドはイマームに就任することなくマスカットを支配した[6]1792年にハマドが天然痘で病没した後、サイードの兄弟であるスルターン・ビン・アフマドがマスカットを占領する[7]。ブーサイード朝のアラビア半島内陸部への支配は強固なものではなく、権力・財政の基盤は内陸部の町や村から徐々に移っていき、1780年代に首都を内陸部のルスターク(英語版)からオマーン湾に面するマスカットに移転した[8]。ヤアーリバ朝以来、住民の過半数を占めるイバード派の指導者であるイマームが国家を統治していたが、内陸部を離れたブーサイード朝は従来のイバード派を柱とする統治を転換した[9]。マスカットを支配したハマド、スルターンらはイマームの称号を使用せず、より世俗的なサイイドの称号を使用した[10]1821年にサイードが没した後、スルターンの子サイイド・サイードはイマームの称号を継承せず、サイイドを名乗り続けた[10]

スルターンの時代にブーサイード朝はインド洋沿岸、ペルシア湾岸に勢力を拡大し、スルターンの即位直後にグワーダルを中心とするマクラーン(英語版)地方がブーサイード朝の支配下に入る[11]。海洋交易の振興を図るスルターンの方針は、フランスの影響力を除いてペルシア湾の交易路の独占を図るイギリスの思惑に合致していた[12]1798年10月、オマーンとイギリス東インド会社の間でフランスの勢力をマスカットから排除する旨の条約が締結され、1800年にオマーンはイギリス東インド会社の社員のマスカットへの常駐を承認した[13]

内陸部を離れたブーサイード朝が海上交易に力を入れる一方で、ナジュドサウード王国がオマーン北西部に侵入し、北西部の沿岸部はサウード朝の支配下に置かれる[11]。ブライミー、ラアス・アル=ハイマなどの北西部の都市はサウード王国の支配下に入り、孤立したスルターンはサウード王国への貢納を行って服属の意思を示した[14]。海上での優位を確立するため、1800年にスルターンはバーレーン島への遠征を行い一時的に島を占領するが、翌1801年にサウード王国の支援を受けた勢力によって島を喪失する[14]1804年末にスルターンはサウード王国を共通の敵とするオスマン帝国の支援を受けようと試み、オスマンのバグダード総督と共同作戦の協議を行うためにバスラを訪れたが、帰路でラアス・アル=ハイマの海賊集団の攻撃を受けて落命した[14]。スルターンの死後、かつてサウード王国の保護を受けていたスルターンの甥バドル・イブン・サイフが、サウード王国によって王位に就けられた。サウード王国に恩を感じるバドルはオマーンでの支配を確立するため、ワッハーブ派の布教を図った[15]
東アフリカへの進出詳細は「オマーン帝国」を参照1856年当時のオマーンの支配領域

1807年にスルターンの遺児であるサーリムとサイード(サイイド・サイード)がバドルを殺害し、サイードは即位当初サウード王国への従属を表明していたがやがて貢納を拒むようになり、イランのガージャール朝に援軍を要請する。1808年にサイードはラアス・アル=ハイマを支配するカワーシム族を攻撃するが敗北し、再びサウード王国に従属した。1809年、サイードはカワーシム族の海賊行為に業を煮やしたイギリスと連合し、ラアス・アル=ハイマとサウード王国の軍事拠点を破壊した[16]

サイードはイギリスの東アフリカへの進出を予見し、東アフリカ沿岸地域の支配の強化に乗り出した[17]。ザンジバルはブーサイード朝の支配下にあったものの、沿岸部の都市国家の多くはオマーン本土から独立していた[18]モンバサを支配するマズルーイー家はブーサイード朝の正統性を認めず、ブーサイード朝とマズルーイー家の戦争は1837年まで断続的に行われる[19]1840年頃からサイードは居住地をザンジバル島に移し[20]、彼の治世でモガディシュからモザンビークとの国境に至る地域がブーサイード朝の支配下に入った[18]1856年にサイイド・サイードが没した後、ザンジバルはオマーンの政府から分離する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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