この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "ブーランジェ将軍事件"
ブーランジェ将軍事件(ブーランジェしょうぐんじけん)とは、第三共和政治下のフランスで1886年から1889年にかけて起こった、反議会主義的・反共和主義的政治運動である。ブーランジェ事件、ブーランジェ運動、またはブーランジスムとも呼ばれる。目次 普仏戦争の敗北によって課せられた賠償金[1]及び一大鉱業地帯であるアルザス=ロレーヌ地方の喪失のために、フランスの国民感情はドイツに対する敵愾心が高まっていく傾向にあった。また、1882年に起こった金融恐慌のために、それまで上昇傾向であった景気が低迷し、工業生産はアメリカ・ドイツ[2]に抜かれて世界第4位に転落する有様であった。また、帝国主義による植民地支配は拡大し、外債によって対外投資が増大するという問題点もあったことに加えて、ドイツでは時の宰相であるビスマルクがフランスを孤立させる外交方針を展開していた(ビスマルク体制を参照)ことから、対独ナショナリズムの高揚と強い政府を求める声が主張されていた。 しかしながら当時の多党連立政権は明確な対策を打ち出すことができず[3]、与党に対抗すべき社会主義政党も離合集散を繰り返しており広範の支持を得ることはできていない状況であった。一方王党派はブルボン朝支持派とオルレアン朝支持派の間に対立があり、こちらもまとまりを欠いていた。 1886年1月、シャルル・ド・フレシネ内閣[4]の陸軍大臣としてジョルジュ・ブーランジェが登用される。 ブーランジェは時勢が共和派に有利となっていると判断し、彼らに迎合するかたちで兵制の民主的改革や王族の軍隊からの排除を行った。また、ドゥカズビル 1886年12月には内閣がルネ・ゴブレ 1887年5月、内閣がモーリス・ルーヴィエ
1 事件直前のフランスの情勢
2 ブーランジェ将軍の登場
3 復讐将軍
4 更迭と予備役編入以後
5 王党派への接近
6 選挙での圧勝・クーデター未発
7 他の政治運動との比較
8 脚注
9 関連項目
10 関連図書
事件直前のフランスの情勢
ブーランジェ将軍の登場
復讐将軍
更迭と予備役編入以後
その直後、大統領ジュール・グレヴィの女婿ヴィルソン(fr:Daniel Wilson)によるレジオンドヌール勲章売勲スキャンダル(fr:Scandale des decorations)が発覚。ルーヴィエ内閣は総辞職、グレヴィ自身も辞職せざるを得なくなった[6]。これにより政府の権威は失墜し、これに反比例するように、ブーランジェに対する期待感が大きくなっていった。 この情勢を見て取ったブーランジェは、ひそかに王党派やボナパルティストの指導者たちと会合を行い、反共和主義勢力とよしみを結ぶようになった。王党派は王政復古を、ボナパルト派はブーランジェのカリスマ性に帝政復活を期待していた事情があった。
王党派への接近