ブーマー・ウェルズ
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ブーマー・ウェルズ
Boomer Wells基本情報
国籍
アメリカ合衆国
出身地アラバマ州
生年月日 (1954-04-25) 1954年4月25日(70歳)
身長
体重200 cm
100 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手
プロ入り1976年 アマチュアFA
初出場MLB / 1981年8月10日
NPB / 1983年4月9日
最終出場MLB / 1982年10月3日
NPB / 1992年10月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


ニューヨーク州立大学オールバニ校

トロント・ブルージェイズ (1981)

ミネソタ・ツインズ (1982)

阪急ブレーブス
オリックス・ブレーブス
オリックス・ブルーウェーブ
(1983 - 1991)

福岡ダイエーホークス (1992)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ブーマー・ウェルズ(Boomer Wells、本名:グレゴリー・デウェイン・ウェルズ(Gregory DeWayne "Boomer" Wells)、1954年4月25日 - )は、アメリカ合衆国アラバマ州出身の元プロ野球選手内野手)。

1980年代後半の阪急・オリックスの主砲として、三冠王最優秀選手(MVP)を始めとする数々のタイトルを獲得した。
経歴

ニューヨーク州立大学オールバニ校時代はNFL選手を目指しており、1975年のNFLNFLドラフト16巡でニューヨーク・ジェッツに指名されたものの、すぐに体重とパワーの不足を理由に自由契約となる[1]。アマチュアFAとしてMLB傘下と契約を結んだ。1976年ピッツバーグ・パイレーツ[1]1981年トロント・ブルージェイズ1982年ミネソタ・ツインズを経て、1983年阪急ブレーブスに入団した。

阪急がブーマーを獲得したのは1982年オフのハワイのウィンター・ミーティングで[2]、当初はランディ・バースに目を付けており、阪神タイガースとの間で契約金の競り合いになった。他方で球団常務の矢形勝洋がアメリカのスポーツ雑誌の情報から、長打力がありながら三振の少ないブーマーに着目してツインズと交渉していた[2]。当初ツインズはメジャーに昇格させる予定として拒否したが、トレードマネーの支払を条件に移籍に応じ、阪急への入団が決まったことから、阪急はバースからは撤退することとした[2]。阪急は年俸3,000万円とトレードマネーを支払ったが、それでも阪神のバースへの年俸支給額よりは安かったという[2]

一方、阪急への移籍をブーマーは希望していたわけではない。というのも、移籍直前当時のツインズのオーナーが黒人嫌いであり、トレードマネーを稼ぐためにブーマーを日本に売却したという話もある。また、ツインズのフロントからは「行かなければ永久に野球ができないようにする」と恫喝されたと伝わる[1]。本人も後にインタビューで、来日に至る経緯を「私に関する権利をツインズが阪急に売ったので、仕方なく。自分では何にも決められなかった」と語っている[3]

登録名を『ブームを呼ぶ男』の意味のブーマーとした。来日前、何も分からない日本野球についてチャーリー・マニエルから情報を収集。「投手が打たれると捕手を交代する[4]」「開幕前のトレーニング(キャンプ・オープン戦)が2カ月もある」などの話を聞いた時は冗談だと思ったが、実際日本でプレーして現実だったことを知り驚いたという[5]。ただし、シーズン前や試合前の練習についてはもともとブーマーは練習量が多いほうだったので個人的な差はそれほど感じなかったという。また、川崎球場で試合前の練習をした後「ところで本番の試合はどこでするんだろう」と思っていたところ、その後スタンドに観客が入ってきたので驚いたといわれている。当のブーマーは川崎球場をアメリカで言うところの「マイナーリーグ」、つまり二軍の野球場だと思い込み、試合は別の野球場に移動して行うものだと考えていたらしい。また、その日の川崎球場は客が不入りで、それこそマイナーリーグ並みの僅かな観客数だったため、その光景には「これが日本のプロ野球なのか」と特に驚いたようである。

来日直後の阪急の春季キャンプでは、場外本塁打を連発する彼の姿をテレビのスポーツニュースで見た高齢者が、衝撃のあまり心臓発作で倒れてしまったり、ブーマーの打った場外ホームランが近隣の民家に飛び込んで金魚鉢が壊れるなど、入団時から「飛ばし屋」としての話題に事欠かなかった。阪急西宮球場では当初、ブーマーが打席に入った際には、アストロビジョンが当たった打球で故障しないようシャッターを下ろして保護しようという動きもあった。「ブーマー曲線」なる打球の角度・伸びがシミュレーションされたこともある。しかし公式戦では打率こそ.307をマークしたものの17本塁打に終わる。これは、日本野球への順応途上だったことと、膝を手術したばかりでオフのトレーニングが不足していたためだという[5]。「場外本塁打を打ったら等身大の特大2メートルの『ブーマーパン』というパンを観客にプレゼントする」という企画も球団で立てられた。しかし、1年目の公式戦で場外本塁打は出ず、企画はあえなく頓挫した。

来日1年目にして規定打席到達かつ打率3割台の成績を残したが本人は納得いっておらず、このシーズンの成績により周囲から「よくやった」と労われたことには戸惑いを隠せなかった。

日本野球に慣れ、オフのトレーニングも十分積んで2年目の1984年には打率.355、37本塁打、130打点で来日外国人選手初となる三冠王[6]MVPを獲得、リーグ優勝に貢献した。このことでメジャーからも契約の話があったが断っている[7]。来日前にもプエルトリコベネズエラ、アメリカでも気候の違うさまざまなチームにいた経験からもともと順応性には自信があったという[5]。1年目は柳田豊近鉄バファローズ)を苦手としており、左打席に立ったことがあるほどだったが、2年目以降は克服した。

1985年、ユニフォームを忘れて同僚の山沖之彦(190cmの長身)のユニフォームを借りて試合に出場したことがある。しかしサイズが合わずバッティングも窮屈になってしまった。最初はこの年だけ在籍した体格のいいジョー・ヒックスのユニフォーム借用を提案されたが「オレはあいつほど太っていない」と拒否したという。

1987年に再び打点王1989年には首位打者と打点王の2冠を獲得。

1988年7月13日の西武ライオンズ戦(阪急西宮球場)で渡辺久信から飛距離162mの場外本塁打を放ち、落下地点が確認された本塁打としては日本最長記録となった。前述の『ブーマーパン』企画を知る球団スタッフは残念がったという。1989年9月16日の近鉄戦(藤井寺球場)では、レフトスタンドを指差す「予告ホームラン」をし、佐々木修から見事レフトスタンドにホームランを打ったことがある[8]

1989年、前年に118kgまで体重が増えたことで故障がちだったためにオフにパンとフライドポテトを断つダイエットを敢行してシーズンインし、開幕から5試合連続本塁打と好調スタートを切った[1]


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